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「地獄に堕とすべきか、天国に送るべきか、悩んでいるという男はこの男か?ガヴリエル」
天使長は、天使のガヴリエルに訊いた。
「はい。年齢は五十歳。小柄の肥満体で、頭髪は薄く、生涯童貞を貫いています。
ただ、労働経験はなく、年老いた両親に扶養されており、まったく罪悪感をもっておりません」
天使のガヴリエルは電子カルテをパッドで事務的に閲覧しながら、天使長に報告している。天使長は、ため息をついた。
「この頃増えてきている手合いだな……たしかニートとか呼ぶそうな」
「はい、その通りです」
「ではあれか?両親に暴言や暴力をふるったりはしているのかな?」
「いいえ、きわめて大人しい男です。性根は腐っているようですが、他人に迷惑をかけている様子はないので……」
「それでなんじは迷っている、というわけだな」
「はい。つかみどころのない男のように見えます」
「ならば、なんじが下界に降りてその男と会ってくるがいい。判断はなんじに任せる」
※
「社会福祉協議会からのお方ですか。今さらこの私になんの御用でございましょうかね?」
人間の若い女性に変化したガヴリエルは、男の汚部屋にまず絶句し、つぎにその醜い容姿に吐き気をもよおした。
(こんなに醜い人間がいたのか……)
男をそのまま地獄に堕としたい邪念を振り払って、ガヴリエルは答えた。
「はい。市ではニート・引きこもりの実態調査を行っておりまして、今日は面談にまいりました」
「……そうですか。じゃあ、そのへんに座ってくださいよ」
ゴミやマンガで立錐の余地もない部屋に座れと命じられ、ガヴリエルは困惑した。
ガラクタ(とガヴリエルには見えた)を丁寧に置き換え、男と対峙できる席を自分でつくった。
「三十年以上、就労に就いておられませんが……お困りのことはありませんか?」
「あります。あなたが急に私の部屋に闖入してきたことです」
ガヴリエルは、ムッとした。天使を苛立たせる人間はめったにいない。
「ご両親もご高齢ですし……こういうことをいうと失礼ですが、お二人がお亡くなりになった後、収入のことで心配はされていませんか?」
「していません。父は現役世代エリートサラリーマンでしたので、小金を貯めておりますですね。
それと私自身の年金で逃げ切りをはかる予定でございますですよ」
「そんな……」
ガヴリエルは、男を軽蔑した。人頼みで努力もせず人生をのうのうとすごしていることに小さな怒りを覚えもした。
「私みたいな何の能力もない人間が、世間に解き放たれる方がよっぽどの害悪でございますですよ。
私は誰にも傷つけられたくない代わりに、誰も傷つけたくないのでございます。
いわば宗門に入らずして、出家遁世をかまえているようなものですね。
あなたのような市役所の職員と偽って、会いに来るようなお方でもね」
ガヴリエルは、やはり見破られていたのかと肩を落した。この男の心中に動揺がまったく感じられなかったからだ。
「私が誰か、興味はないのですか?」
「あなたはあなたでしょうよ。
でも悪意は感じられなかったので、お目にかかりました。私にも、なんの身分もありません。尋ねるのも失礼でございますから」
ガヴリエルは、熟考した。
この男は勤勉ではないものの、悪質な人柄ではない。むしろ己の愚かさを恥じ、天命に身を任せているように見える。
地上で欲望を貪り、人を蹴落としたり陥れたりしている日常を飽きるほど観察してきたガヴリエルにとって、男のありようは新鮮であった。
「まあ、要観察……ということでいいか」
つぶやいたガヴリエルの方を見遣りもせず、男はマンガを寝転んで読んでいた。
「はいはい。さ、用事が済んだら、とっととお引き取り願いたいものですね。あなたのような若い天使なら、この部屋に汚染されますですよ」
ガヴリエルは、驚愕した。
「わ、私は天使なんかじゃありません!」
「わかっておりますですよ。冗談も理解できないほど頭がガチガチですと、ストレスがたまりますよ」
「ふふっ」
ガヴリエルは、つい男の冗談につられて笑った。キリスト教教会の大幹部でも、策略と欲望に身を焦がし、地獄に堕としたいリストに名を連ねている僧侶が何人もいる。
(俗世に生きながら、出家遁世か……)
男がその生き方を貫いたのならば、それはそれで清々しいものではないか、と感じた。
「わかりました。今日はここで退散いたします。あなたの生き方はそれとなく監視させていただきますので」
「だからー、その天使設定はもういいんですよ。何度来られても、私は変わりませんですからね」
男が振り向いたとき、ガヴリエルの姿は部屋にもうなかった。
「はは……、まさかね」
男は皮肉な独り言をいって、ふたたび怠惰な日常に身を委ねていくのであった。
終
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