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「あれ? どっから来たんだ、お前?」
「キキッ」
神社めぐりが趣味の少年、マサルの前に白い子ザルが現れた。
ここは比叡山のふもと、日吉大社の境内だ。マサルの手にはついさっきいただいた御朱印帳がある。
まだ15歳だが、全国の神社をめぐり御朱印を集めるのがマサルの趣味だった。夏休みの初日、神社めぐりのスタート地点として、マサルは地元にある日吉大社に来ていた。
「ウキャッ」
「あっ! 何するんだ?」
マサルの手から御朱印帳を奪い取り、子ザルが走り去っていく。
「待て!」
マサルは必死に子ザルの後を追いかけた。
子ザルは木立の中に入り、急な斜面を駆け上っていく。マサルはその姿を見失うまいと、斜面を必死に登って追いかけた。
「あれ、ここはどこだ?」
藪を潜り、大木を迂回している内に、マサルは自分の位置を見失っていた。いまはそれよりも、子ザルに追いついて御朱印帳を取り返すことしか頭にない。
「キキーッ!」
斜面の先に古びた小さな祠が現れ、子ザルはその中に吸い込まれるように姿を消した。
「はあ、はあ。この……祠は……なんだ?」
見回しても看板や額の類はない。目の高さよりも小さな、飾り気のない祠だった。
格子をはめ込んだ扉を透かしてみたが、祠の中に子ザルの姿は見えない。
「ああー。どこに行っちゃったんだろう」
大切にしていた御朱印帳を持ち去られて、マサルはがっくりと項垂れた。
しばらく祠の前にしゃがみ込んでいたマサルは、立ち上がって大きく深呼吸をした。
「なくしたものはしょうがない。また集めればいいさ。せっかくだからこの祠にお詣りしていこう」
マサルは気を取り直して祠に正対し、きちんと拝礼した。
二礼二拍一礼。心を鎮めて柏手を打つと、「ぱん」という音が木立の中に広がり空気を清めるような気がした。
<名は――?>
「えっ?」
礼を終わって顔を上げたマサルの頭の中に、力強い声が響いた。
<名はなんという?>
「ま、マサルです」
思わず辺りを見回し、祠をのぞき込んでみたが、やはり誰もいない。
<よきかな。我が名は大山咋。お山を守る和魂なり>
大山咋神とはお山の主であり、その土地を守る守護神のことだ。別名を「山王」という。社好きのマサルにはその知識があった。
気がつけば辺りに霞がかかり、一帯に清浄な気が満ちていた。マサルは声の主が山の神であることに疑いを持たなかった。
<マサルよ。我が使いとなって為すところを為せ。さすれば汝に我が印を授けよう>
「わかりました。お引き受けします」
<よきかな。汝を導く者を遣わそう>
マサルには大山咋神の意図がまっすぐに伝わってきた。「為すところ」が何であるかも、自然と理解できる。
頭を下げたマサルの目の前で、祠の扉がゆっくりと開いた。現れたのは白く光る子ザルだった。
(これはさっきの猿)
<キキッ>
子ザルの手にはマサルの御朱印帳があった。それをマサルに差し出してくる。迷わず受け取ると子ザルは細かい光となって、御朱印帳の中に吸い込まれた。
マサルは御朱印帳をリュックに仕舞い、山を下りた。なぜか道順は頭の中にあり、迷うこともなかった。
頭に霞がかかった面持ちで、マサルは坂本市内にある家に帰りついた。
自分の部屋に入り、リュックから御朱印帳を取り出して机の上に置く。
「御朱印帳が戻ってよかった。明日からたくさん御朱印を集めるぞ!」
<チガウヨ。御主印ダヨ>
頭の中に幼児のように甲高い声が響いた。
「この声は誰?」
<静カニ。オオキナ声ヲダスト、家族ニ疑ワレルヨ>
マサルは慌てて口をつぐんだ。
<ボクハ神猿。マサルガ主サマノオ使イヲ果タシテ、御主印ヲ集メル手伝イヲスルノサ>
神猿とは日吉大社に伝わる神の使いだ。日吉さんといえばおサルさんといわれるほど、地元では親しまれている。
神のお使いなら口をきいてもおかしくない。マサルは自然に神猿と会話していた。
「御主印ってなに? 御朱印とは違うのかい?」
<御主印テイウノハ主サマガ下サル印ノコトダヨ。神様ガ直接下サルモノダカラ、特別ナチカラガ籠メラレテイルノサ>
頭の中で会話しているせいか、同じ響きの「御主印」と「御朱印」でもマサルには違う意味の言葉として聞こえていた。
<マサルト神猿ジャ紛ラワシイネ。僕ニ名前ヲツケテヨ>
「わかった。それなら君は……マークだ」
御主印集めを手伝う精霊だからマーク。わかりやすさが一番だとマサルは思った。
<イイネ。ジャアマサルノ使命ヲ伝エルヨ>
「僕は何をすればいいんだい?」
<10箇所ノ社ヲ回ッテ「御杭」ヲ立テルコト。ソレガ君ノ使命サ>
御杭とは大山咋神の神威を籠めた聖なる杭のこと。神域にこの杭を立てることによって、そこを浄め、穢れから守るのが大山咋神の権能だった。
「僕が行かないと御杭は立てられないの?」
<本当ハ僕タチ神猿ノ仕事ナンダ……。デモ人間ノ信仰ガ薄レ、僕タチハ神域ノ外ニ出ラレナクナッチャッタンダ>
マークの声はどこか寂しそうだった。
「いまはどうやって神域を出てきたの?」
<マサルノ御朱印帳ヲ形代ニシテ、ソコニ魂ヲ宿シタノサ。ソノカワリ自分デハ動ケナインダ>
「そうか。僕が御朱印帳を持って社までマークを連れていけばいいんだね」
<デモ、気ヲツケルンダ。10箇所ノ社ニハ「鬼」ガ迫ッテイル>
「現代に鬼なんているの?」
<鬼ハドノ時代ニモイルヨ。災イヲ招ク穢レガ形トナッタモノ、ソレガ鬼ナンダ>
鬼が勢いをつければ世の中に災いをもたらす。疫病、天変地異、戦乱など。
「大変じゃないか! もしかしてコロナや地震、大雨なんかも鬼のせい?」
<全部ガ鬼ノセイトハイエナイ。デモ、ソウイウモノガ流行リヤスイ気ヲモタラスノガ鬼ナンダヨ>
普通感冒という病気のことを、一般に「風邪」と呼ぶ。風邪とはもともと「悪い気」という意味だ。鬼とは邪気を運ぶものであった。
<イマノ内ナラ鬼ノチカラガ弱イ。手オクレニナル前ニ「御杭」ヲ立テルンダ>
マサルは家族に神社巡りをするといって、翌日再び旅立った。
御朱印帳はいつものリュックに入れて背中にある。
(ところで、御主印をもらうとなにかいいことあるのかな?)
京都に向かう電車の中でマサルは声に出さずに語りかける。
<御主印ハゴ主人サマノ御心ニソウ行イガデキタトイウ証ニ頂クモノダヨ。十社ヲメグリ終エタラ主サマカラゴ褒美ヲモラエルヨ>
頭の中でマークの声が答えた。マサルには男の子の声に聞こえていた。
(ふうん。ご褒美かあ)
マサルの頭の中には「ポイントカード」のような仕組みが思い浮かんでいた。邪気を払う「御杭」を立てるたびに、ポイントがたまる。10ポイントたまったらなにかと交換、みたいな。
<「ぽいんとかーど」ッテナンダカ知ラナイケド、タブン似テル>
(へえ。なにをもらえるのかな? ちょっと楽しみになってきた)
旅に出る喜びに褒美をもらえる期待が加わって、思わず顔がほころぶマサルだった。
マークの言葉が終わると、マサルの膝の上が白く輝いた。光の中から和綴じの帳面が現れる。
(おお! これがきっと御主印帳だ)
<御主印帳ハ君以外ノ人間ニハ見エナイ。主サマノオ名前ヲ心ニ念ジレバ呼ビ出セルンダヨ>
(へぇー。なんだかステータス・ウィンドウみたいだね)
<すてーたす……ヨクワカラナイヨ。マサルハ時々不思議ナコトヲイウネ。キキッ!>
(ぇえー? マークの方がずっと不思議だよ……)
一人旅だというのに、京都までの移動はあっという間に過ぎていった。
マサルが向かったのは京都府東山区にある「新日吉神宮」だった。新日吉神宮は1160年に日吉大社から山王七社を勧請して「新日吉社」として創建されたものだ。
そもそも日吉大社は日枝山にある社として建立されたものであり、元々の読み方は「ひえ」であった。天台宗総本山延暦寺の山号を比叡山と呼ぶが、「ひえ」の名に「比叡」の字を当てたものだ。
延暦寺は京都御所の鬼門に当たり、都を守る鎮守の役割を持っていた。しかし、1160年当時は南都北嶺と呼ばれて権威を振るった延暦寺の横暴が激しく、朝廷鎮守の役割をまっとうしていたとは言い難かった。
この時期は武家勢力の台頭が著しく、保元の乱(1156年)、平治の乱(1159年)と政変が続いた時期でもあった。
文字通り生命の危機に瀕していた後白河上皇は、より身近に朝廷鎮守の力を置きたかったのだろう。日枝の山から「山王七社」の神々を招き、東山のふもとにまつったのだ。
数ある日吉神社、日枝神社の中でも日吉大社についで重要な社といってよいだろう。
1958年になって、後白河上皇(天皇)本人もこの地に神としてまつられている。
参拝を済ませたマサルは人気のない境内の一角に佇んでいた。その肩には子ザルの形に姿を現したマークが乗っている。
(さて、「御杭」をどこに立てたらいいだろう?)
御杭は大山咋神の神威であり、人の目には見えない。とはいっても本殿の周辺は人目が多くて目立ったことができなかった。
<ゴ神域ノ中ナラドコデモイイケド、折角ナラ鬼門ニ置コウカ>
(僕が勝手に歩き回っても大丈夫かな?)
<大丈夫。ボクノチカラデマサルノ気配ヲ薄クシテアゲル>
姿を消すことまでは無理だったが、マークは人の意識に上らないようにマサルの存在をおぼろにした。
マサルの目にすうっと一筋、地面の上に白く光る線が映った。線に導かれて歩いていくと、北東の木立の中に白く光る円があった。
(ソノ円ノ上ニ御主印帳ヲカザシテ)
マサルが手を差し伸べると手の上が光り、御主印帳が現れた。御主印帳から浮き上がるように30センチほどの白い杭が現れ、地面に吸い込まれた。
白い円は「御杭」を吸い込むと、一瞬黄金色に光ってから消えてなくなった。
(コレデ終ワリダヨ。マサル、ゴ苦労サマ)
マークの言葉が終わると、マサルが捧げ持つ「御主印帳」の1ページ目が開いて、白い光を発した。そこに浮かび上がったのは先程地面に打ち込んだものと同じ御杭の形だった。輝く御杭に何本もの細い線がきらきらと光りながらまとわりつき、絡まり合う。
<コレガ主サマノ印ダヨ。御杭ハ主サマノ神威ソノモノナンダ>
(これを10個集めればいいんだね)
御杭を立てる作業には何の困難もなかった。苦労といえば、マークが示す社に出かけていく道のりだけに思われた。
<神ノオ使イヲ甘ク見テハイケナイヨ。キミノ動キハ「鬼」ニ伝ワルンダカラ>
今日、新日吉神宮の神威は明らかに強まった。神域は清浄なる気に満ち、邪気を払って寄せつけない。黄ばんだ布に漂白剤を落としたように、この地の輝きが周りから浮き上がっていた。
<コノ先、鬼タチガキミノ邪魔ヲスルカモシレナイ。気ヲツケテネ>
心配そうなマークの声が頭の中に響いたが、マサルにはどんな障害が待ち受けているのか想像ができなかった。
マサルが次に向かったのは、大阪市旭区にある日吉神社だった。大阪城の北方6キロほどにあるこの社は、15世紀半ばに日吉大社から大山咋神を分祀して建立された。すぐ北側を淀川に面しており、治水の神として大山咋神をまつったのだろう。
その一方、15世紀半ばといえば世は応仁の乱(1467年~)に向かって政変や戦で揺れ動いていた時代である。1441年には赤松満祐が室町幕府第6代将軍足利義教を殺害する「嘉吉の変」が起きている。その後管領となった畠山持国は現在の大阪である河内国の守護であった。山王社は畠山氏の指示によって、河内国を守る守護神として建立されたのかもしれない。
(いやあ。新日吉神宮ではたくさん御朱印がもらえたなあ。さすがは京都だね)
新日吉神宮の他、飛梅天満宮、愛宕神社、秋葉神社、樹下社、そして山口稲荷神社の御朱印を一度に頂けた。マサルは朱色鮮やかな印影を眺めてご機嫌だった。
<浮カレテルト乗リ過ゴスヨ?>
頭の中でマークの声がした。マサルは慌てて下車の準備をする。
マサルが降り立ったのは「おおさか東線」城北公園通駅だった。そこから北へまっすぐ淀川に向かえば、10分ほどで日吉神社に着く。
参拝を済ませ、マサルは本殿を回って人気のない裏手に出た。もう一度見まわし、人目がないことを確認してから両手をかざし、御主印帳を呼び出そうとした。
<待ッテ! 何カイル>
頭の中に緊迫したマークの声が響いた。
<アソコ! 木ノ下ダ!>
10メートル先の地面に、黒いわだかまりのようなものがあった。溶けたタールのようなどろどろとした塊だが、光を反射しないので地面に穴が開いたように見える。
<ゴ神域ニ入リ込ムナンテ、アリ得ナイハズナノニ>
見ていると背筋がおぞ気立つような不気味さがあった。邪気を寄せつけぬ神域に存在するはずのない異物。
(この地の神威が弱まっているのか?)
黒い塊は揺らぎ、震えながら形を変えた。痛みにのたうつようにうごめくと、やがて影は猪の姿になった。全身を覆う体毛は黒く、油のようなものにぬれている。目は熾火を燃やすように赤く、鋭い牙の間からふしゅるふしゅると荒い息を立てていた。
(どうしよう! きっとこっちを襲ってくる!)
マサルは恐怖に全身を掴まれ、立ちすくんだ。ただ目を見開いたまま震えることしかできない。
<動カナイデ。動ケバ一気ニ襲ッテクルヨ。ボクニ任セテ!>
地面にかざしたまま震えていたマサルの両手が白く光った。光は徐々に形を変え、見覚えのある白い子ザルが出現した。
マークの右手には、まぶしく輝く御杭があった。
<コノ葦原中国ハ天津神ノ裔ノ知ラシメストコロ。禍津日神ニ従ウモノガ足踏ミ入レルベキトコロニアラズ。清ラナル神ノオ庭ヲ穢スコトナク、ソノ身ヲ慎ミテ、疾ク控エ、疾ク去ルベシ!>
マークは御杭をかざして、ずいずいと黒い猪に迫った。
猪は口から荒い息を吐きつつ、よだれを垂らして揺れていたが、マークが近づくと御杭から受ける光に耐えかねた様子で、がっくりと前脚を折って地に伏した。
<怪シノモノヨ、疾ク黄泉ノ国ニ帰レ。ソノ影モ、ソノ音モ、コボスコトナク地ノ底深ク帰ルベシ。我神ノ御言ヲカクノリ、カク申スモノナリ>
ぐいと御杭を上から押さえつけるように動かせば、黒猪は地面に押しつけられて項垂れた。
『ガァアアーッ!』
黒猪は真っ黒い血の塊らしきものを口から吐き出して、身もだえした。
御杭の光に押しのけられ、黒猪の大きさが一回り小さくなっている。
<去ルベシ! 去ルベシ!>
ここぞとばかり、マークは御杭を黒獅子の額に押しつけた。
『ガウッ!』
抗う力がないと見えた黒猪が、突然首をひねってマークの手首にかみついた。
<シマッタ!>
不意を突かれたマークの手から御杭が落ちて、地面を転がった。
『グ、ガァアアーッ!』
御杭の圧力が消えて、猪は手足の力を取り戻した。マークの手首をくわえたまま、震える足を踏みしめて立ち上がる。
真っ赤な瞳に憎しみを籠めて黒猪がマークを睨みつけた。かまれた手首からマークの腕に真っ黒な穢れが広がり始めていた。
「黄泉の国に帰れっ!」
黒猪の首を白い閃光が貫いた。
御杭を拾い上げたマサルが、真上から黒猪の首に御杭を突き刺したのだ。
『グ、ギャァアアーッ!』
黒猪はマークの手首を放して、苦鳴を上げた。
「マーク、大丈夫か?」
<アリガトウ、マサル。ソノママ御杭ヲ地面ニ突キ立テテ!>
頷いたマサルが両手に力を籠めると、御杭を包む光がさらに強まった。まとわりつく白い線がほどけて広がり、黒猪に絡みついて縛り上げていく。
やがて身動きが取れなくなった猪を地面に引き込むように、御杭は地上から姿を消した。
<フウー。危ナカッタ。マサルニ助ケラレタヨ>
黒猪が消えると同時にマークの腕を侵していた黒い穢れも消えていった。
<アリガトウ、マサル>
マサルは自分の手を見た。黒猪に御杭を突き立てたはずの両手は、握り締められたままぶるぶると震えていた。
「危なかった……。僕が臆病なばっかりに、マークは殺されるところだった」
緊張の糸が切れて、マサルは両手で顔を覆った。震える手が涙でぬれる。
<マサル、自分ヲ責メナイデ!>
頭の中でマークの声が聞こえた。
<マサルハ臆病者ナンカジャナイ。ボクヲ助ケテクレタヨ!>
(う、うん。でも、震えてばっかりで格好悪いや)
アニメのヒーローみたいに堂々としていられたらなあと、マサルは頬をひきつらせて頭を掻いた。
<――恥じること無かれ。身は震えようとも心は猛し。これまさしく大丈夫なり>
その声と共に眼前に光が集まり、御主印帳が現れた。新たなページに御杭の印が描かれる。
<ホラネ。ヤッタジャナイカ、マサル!>
◆
夏休みの終わり近く、マサルは東京都千代田区の日枝神社にいた。江戸城築城に際して太田道灌が仙波日枝神社を勧請したと言われる。
すなわち、皇居と首都東京の守り神である。
(ここが最後だね)
マサルは神域の片隅で両手を差し伸べ、御主印帳を呼び出した。浮かび上がった御杭をつかみ取り、マークがマサルの肩から飛び降りた。
<我ガ主ノ使イトシテ御杭捧ゲマツル。コノ地ヲ浄メ怪シノ気ヲ払ワンーー。ンギャッ!>
マークは御杭をぼとりと取り落とし、手首を押さえて地面に倒れた。マークの手首にいつかの黒い影がまとわりついていた。うごめく影は手首からひじ、そして体へと広がり、マークを覆いつくしていく。
「あの影は、猪の――!」
<ギャッ! グ、グ、グ……>
『我は火冠童子。この地を災いで覆い、死病の巷としてくれる!』
いまやマークの全身を覆った黒い影から、雷雲のように黒い塊が沸き上がり、鬼の姿となった。
「マークから離れろ!」
御主印帳を握り締めたマサルが、大山咋神の名を心に念じながら鬼に命じた。
「清らなる神の庭を穢す怪しのものよ、我が主大山咋神に代わりてその使いマサルが申す。黄泉の国に帰るべし。疾く控え、疾く去るべし!」
掴みしめた御主印帳は眩しく光りながら長大な御杭に形を変えた。鬼はその光に耐えられず、神風を受けた黒雲のように散っていく。
『ギャアぁああー……!』
光が去った後、そこには白き体に戻ったマークだけが倒れていた。
「マーク! マークっ!」
<ウッ。――ソウカ鬼ニ取リ込マレソウダッタトコロヲマサルガ助ケテクレタンダネ!>
「よかった……。無事だったんだね、マーク」
<キキッ。ボクハ神猿ダヨ? 信ジテクレルモノガイル限リ消エタリシナイノサ!>
マサルの手の中で御主印帳が白い光の粒となって、消え去っていった。
(ああ。これで終わりだ)
御主印帳の名残を惜しむように、マサルはしばらくその場に佇んでいた。
「どうかしましたか?」
「いいえ。ちょっと立ちくらみがして」
「そうですか。良かったら社務所で休んでいらっしゃい」
親切な社務所の職員さんに声をかけられ、マサルは社務所に入った。
「ほう。日吉大社の分社を回っていると? 若いうちにいろんな土地を見ることは、いいことだと思うよ。神社は人の良い心を集めた場所だから、心の穢れを払ってくれる」
職員がお茶を用意してくれる間、マサルは御朱印帳を眺めていた。地元滋賀県を皮切りに京都、大阪、東京ばかりか、愛知、兵庫、福岡までも足を延ばして集めた御朱印が一冊に納まっている。
「立派な御朱印帳だね。今日はこれから坂本まで帰るのかね? そうですか。長旅だ。焦らず、ゆっくり帰りなさい」
休息の礼をいってマサルは社務所を後にした。
「大したもんだね、今の若い人は。わたしなんか団体旅行でしか東京を出たことがなかったが……」
<キキッ>
「うん? どこかで猿の声が聞こえたような……。ははは、気のせいか」
職員は頭を振って仕事に戻った。
10個の印を集めた御主印帳を日吉大社に持ち帰れば、大山咋神から褒美があるはずだ。神話によくある展開なら、願い事をかなえてくれるかもしれない。
マサルの願い事は決まっている。それを支えに、最後まで神の使いをやり遂げたのだ。
(マークと友達になれますように)
そう願って、マサルは山王日枝神社の鳥居をくぐった。
マサルは、既に願い事がかなっていることに気がついていなかった。<了>
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