鈍色の夏へと打ち上げられ、すぐに消えたあの花火は

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 成恋川(なるこいがわ)の花火を見ながら伝えた思いは、必ず成就するらしい。  中学時代の俺は、クラスの女子が話すそんな噂話なんて、興味がないふりをしていた。だから、家が近所で子供の頃から仲が良かった紗代(さよ)を花火に誘ったのだって、彼女からすればきっと近所付き合いの一環だと思ったに違いない。  浴衣を着た紗代は、待ち合わせ場所の桁橋に少し早く到着していて、俺の姿を見つけると胸の辺りで小さく手を振った。薄水色に絵の具を撒き散らしたような黄色い花火が描かれた、大人っぽくて綺麗な浴衣だった。  浴衣が綺麗すぎてお前に顔が霞んで見える、なんて照れ隠しで揶揄う俺に、彼女は不満そうな顔を向けた。  その唇は、何かを待ち構えるように硬く結ばれているような気がした。  やがて日が落ち、花火が上がる。  3つ目の花火が上がり、飛び散った火の粉が川に落ちていくタイミングを見計らって、俺は横目で彼女を見ながら「好きだ」と呟いた。  固く身を強張らせていた紗代が身を震わせる。  そして、ゆっくりと肩の力が抜けていく。  緊張が剥がれかけた紗代の顔は、普段の彼女とは違って見えた。その瞳には、今まで目にした事も無いような熱い感情が閉じ込められていた。  その得体の知れない何かが、なぜか俺には、とても恐ろしいもののように感じた。  今までの『俺』が、そして紗代を含む『俺たち』が、この瞬間に大きく変わってしまい、二度と戻る事は出来ないような気がした。  取り返しのつかない事を口走ってしまった、そんな後悔が俺の心を埋め尽くす。  なんの事ない。  あの頃の俺はまだガキだったのだ。  ガキから、少しだけオトナになるのが、怖かったのだ。  何かを言おうとする紗代の言葉を遮る様に、俺は「いや、花火の事が、ね」と付け加える。  その言葉を聞いた紗代の瞳は、行き場をなくした熱で陽炎のように揺らいだ。 「ほんと、あんたガキだよね……」  自分のした事の是非がわからず、ぼんやりと黒い川を眺めるている俺に、紗代はぼそりと呟いた。  その言葉は、今でも俺の胸に引っかかっている。    *   *   * 「なあ二人とも、知ってるかね?」  友人の将臣(まさおみ)が言う。  あれから3年、高校生になった俺は、今だに馬鹿なガキのままだった。  そんなガキの周りには、同じような輩が集まってくる。クラスのイケてないグループである俺と将臣(まさおみ)、幹太(かんた)の3人は、貴重な高校2年の昼休みを、割とどうでもいいバカ話で浪費していた。 「知ってるって、なんの事だよ?」  下卑た笑いを浮かべる将臣に俺は尋ねる。 「3組の川田(かわた)が、ついにヤったらしいぞ……」 「マジで!?」そういう下世話な話が大好きな幹太が、すぐに食いつく「クッソ羨ましいな。相手は誰だよ? この学校のやつ?」 「いや、ネトゲで知り合った年上のお姉さんらしい」 「年上……お姉さん……」幹太の口元が溶けたチーズみたいに綻ぶのがわかった「それ、すげーエロいじゃん」 「ああ、エロいな」  俺は同意する。  この年代のバカでガキでDTな男子高校生なんて、頭の中は女子への妄想ででいっぱいだ。雑誌やテレビ、SNSは魅力的な女性で溢れていて、否が応にも俺たちの劣情を焚き付けてくる。 「あー、彼女がほしー」  少しだけ語気を強めて、俺は言った。それは、教室の隅にいる彼女の存在を意識した言葉だった。  一番後ろの窓際の席には紗代がいる。  同じ高校に進学し、2年生で同じクラスになったものの、俺たちの時間はあの花火の夜で止まったままだ。  俺は横目で紗代の方を見るが、彼女はこちらの盛り上がりを気にする様子もなく、無表情で本を読んでいた。高校生になってからかけ始めた眼鏡は、彼女の事をより大人びて見せていた。  レンズ越しに見える、活字を追う真剣な視線が今でも好きだった。だから、自分の心を自分で否定してしまったあの夜を、俺はまだ後悔している。 「そいや、そろそろ成恋川の花火大会あんじゃん?」幹太の口から出た単語に、俺は動揺する「あの花火って、こどもの丘公園からよく見えるらしいんよ」  こどもの丘公園とは、この田舎町を見渡せる丘の上にある、小さな公園だ。俺も子供の頃は、よく両親に連れられて遊びに行ったものだ。 「それは、そうだろう」将臣がつまらなそうに頷く「なぜなら、あそこは高台なのだから」  氷を入れた麦茶は冷たい、みたいな当たり前の発言に、俺も侮蔑の目を幹太に向ける。 「ばか、思慮が浅いよおめーら。俺が言いたい事は、そんな低俗な事じゃない」幹太はやれやれと首を振る「花火の夜、あそこは『こどもの丘』から『オトナの丘』になるんよ」 「は?」  俺は幹太が何を言ってるのかわからなかった。しかし頭のいい将臣は、幹太の言わんとする事に気付いたようだ。 「なるほど、まるで花火の見えるラブホ街、と言ったところか」 「さすが将臣、1を聞いて10を知るとはまさにこの事」  幹太と将臣は顔を見合わせると、固く握手を交わす。それは俺が考えうる限り、もっとも低俗な話題だった。 「えー、つまりあの公園の駐車場で、カーセッ――」 「バカっ! みなまで言うな祐一(ゆういち)!」  俺の言葉を幹太が制す。そして俺達二人を手招きすると、囁くような声で言った。 「そこで提案なのだが、花火大会の夜に、カップルの営みを覗きに行ってみね?」    *   *   *  その日の帰り、高校そばのバス停で紗代と一緒になってしまった。少し前までは部活に打ち込んで遅くまで校舎に残っていた紗代だったが、最近は帰宅部の俺と同じバスに乗る日が増えた気がする。  昼が夜を食ってしまったみたいに、夏の夕暮れは不自然な程に長く感じる。赤いフィルムのような夕日が寂れた商店街を包み、休む場所を間違えたセミが、電信柱に止まって恋の歌を唄っている。それは、短い命に追い立てられた、魂の叫びだ。  それを聞いて、人間の俺もなぜか急かされたような気持ちになる。  何処に向かって急げばいいのかわからない。でも、このまま立ち止まっていてはいけないと、根拠のない焦りが夕焼けのように胸を焼いた。 「なあ、紗代」  紗代の方を見ないまま、俺はその名を呼ぶ。 「ん?」  興味なさそうな紗代の声が返ってくる。  また、花火に誘おう。そしてあの告白をもう一度やり直そう。俺は心の中で何度も強く念じた。  しかし、結局ガキでしかない俺は、あっけなくその思いを諦める。 「こどもの丘公園って、花火の夜はオトナの丘公園になるらしいぜ」  本当に心底どうでもいい話題だ。   「は? バカじゃないの?」 「おお、どういう意味か、わかるんだ?」 「マジ、信じらんない……」  横目で紗代の様子を伺う。彼女は俺とは反対側の、いまだに旧型のまま放置されている歩行者信号の方を眺めていた。 「あんた、ほんとガキの頃から変わんないよね」  表情は見えないが、心底落胆した調子で紗代は呟いた。その発言が好意的なものではないのはわかっていたけど、俺は紗代の『ガキの頃から』という言葉が妙に嬉しかった。    きっと彼女の中にはまだ、ガキの頃の俺が生きている。  そうに違いない。 「ガキの頃、ねぇ」  俺は飴玉を舐めるみたいにその言葉を舌の上で転がした。紗代は時代遅れの信号機から俺の方へと視線を移す。 「あんた、いつまでもそんなガキのままでいちゃ、ダメだと思う」  真剣な目だった。  俺は、少しだけたじろぐ。  赤信号から解放されたバスが、俺たちの前に停まった。  エンジンと排気ガスの熱気が、夏の生温い空気に混じり合う。後ろの搭乗口から乗り込んだ俺たちは、前と後ろの離れた席に座った。  スマホを取り出し、LINEを開く。  そこには、書いたはいいが送れてはいない、紗代へのメッセージが残っていた。 『成恋川の花火、一緒に観に行かない?』  登録したものの全くやりとりのないそのトークルームで、書きかけのメッセージは机の奥に押し込まれた数学のプリントみたいに、主張することもなく、消えることもなく、ただぽつんと存在していた。  そのたった一言の送信ボタンを押せないまま、今年もまた花火大会が訪れようとしている。  きっと今年も、送る事は出来ないだろう。        *   *   *  俺達3人は公園へ続く坂を上った。  時刻は19時。あたりはすでに夜を纏いつつあった。  花火を背景に盛り上がるカップルの情事を覗きに行こう! そんなダメ・スタンド・バイ・ミーは滞りなく決行され、俺も結局はその一員としてこの場所にいる。  美麗な虫の鳴き声を、バカで浅はかな会話が濁らせる。 「おそらく、浴衣を着てる女が多いと思われる」 「何故に?」 「その方が脱がせ易いだろうからな」 「さすが将臣、経験もないのに発言が芯を食っている!」 「状況から推察すれば導き出せる当然の帰結だ」 「ほら、あんまり騒いでると、カップル達に気付かれっぞ」  盛り上がる二人を窘(たしな)めて、俺は駐車場のそばの雑木林に身を隠した。ヤブカが大量に寄ってきて、虫除けスプレーをしてこなかった事を後悔する。  野外でおっ始める人達がいれば覗き易いと踏んでいたが、このヤブカ集団の中じゃ行為に集中できないだろう。  駐車場には車が6台ほど並んでいた。  その中の1台、少し離れたところにある黒の軽ワゴンが狙い目だと打ち合わせる。周りの車から見え難いため、軽の死角にさえ入ってしまえばいいのだから。  花火が上がってしばらくしたら、さも素知らぬ様子で近づき、車の後方にしゃがみ込む。車内を覗き込めば、そこには未知の世界が広がっているに違いない!  俺の頬を汗の滴が流れた。  長かった昼間の残火と、よくわからない不健全な高揚感と、中学頃に紗代と観た花火の思い出がないまぜになり、俺の脳を熱く満たしていく。  将臣と幹太が、最適解は正常位だ、座位だ、騎乗位だと盛り上がる中、俺は花火の最初の一発目が夜空を染めるのを観た。  音はコンマ数秒遅れて響く。  無駄話をしていた二人も言葉を止め、夜空を見上げる。二発目、三発目の花火が打ち上がり、空を二つの色に切り分けた。 「はじまったな」  将臣が言う。 「ああ、全てはこれからだ」  アニメのキャラを真似て、幹太が返す。  雑木林を抜け出し、計画通り黒の軽ワゴンに忍び寄ろうとする二人の後を追って、俺も足早に雑木林を這い出た。  紗代と二人で観た花火大会の空気には程遠い、陰気で汗臭い空気が俺の肌の表面で蠢く。蚊に刺された両足は痛痒く熱を帯びていて、汗で湿ったTシャツは背中に貼り付いていた。  打ち上がる花火はあの夜と変わらない筈なのに、低俗で不快な感情に支配された自分が、なんだかとても虚しく感じた。  俺はいつになったら、この雑木林みたいに雑然とした空気から抜け出せるのだろうか。  先に軽ワゴンの死角に座り込んだ二人が手招きしている。俺も二人に追いつき、黒のワゴンの中を覗き見る。  その瞬間、花火が上がった。  今までにないほど大きな花火だった。  軽ワゴンの大きな窓から入り込んだ明かりが、車内を一瞬だけ明るく照らす。    そこにも、美しい花火が咲いていた。  ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だった。  眼鏡をかけていない彼女は、俺の知らない『女』だった。  その瞳には、運転席に座る若い男の顔だけが写り込んでいるのだろうか。  そしてこの男は、俺が言うことの出来なかった言葉を、花火に見守られながら何度も囁いているのだろうか。  蚊帳の外の俺には、想像することしか出来なかった。      *   *   * 「すごかったな……」  幹太がぼそっと呟く。 「あんなにも、激しいものなのだな……」    将臣が唾を飲み込みながら、何度も頷いた。  観察を終えた俺たちは坂を下っていた。  生理現象によって前屈みになってしまった2人は、急な坂を下るのに難儀し、たまに横歩きになったり後ろ歩きになったりしながらも、余韻を味わうようにゆっくり歩く。 「狭いのに、上手く体位を変えるのな」 「おそらく、両者ともかなりの手練だろう」 「男は大学生くらい、女は……俺たちとそう変わらなそうに見えたぜ?」 「年など関係ない。大人になる素質のあるものは、一足跳びで大人になる。我々のような童の者とは、住むステージが違うのだ」  二人の会話が胸を抉る。 「祐一はどうだった? エロかったかね?」  将臣が俺に尋ねる。 「ん? えぇ? 祐一、泣いてんのかよ?」  ぽつりぽつりと点在する街灯の下、幹太にそう指摘され、俺は初めて自分が泣いていることに気付いた。  気付いてから涙はさらに勢いを増す。  あの頃ガキだった俺は、やはりまだガキだった。  雑木林の広葉樹みたいに放置された雑念の枝葉は、鬱蒼(うっそう)と感情を覆い隠し、大切だったはずの彼女への思いや、決意、信念すらも、見えなくしてしまった。  そして、そんなどうしようもない俺の事など置いて、彼女はとっくの昔にオトナになってしまっていた。    立ち止まっていたのは、俺だけだったんだ。  Tシャツの袖を引っ張って、涙を拭う。 「早く大人になりてぇよ……」  口を突いて出たその言葉は、花火が鳴りやんで静まり返った夜の道に、不釣り合いなほどはっきりと響いた。 「わかってる。悔しい、よな……」幹太が肩を叩く「そう言うだろうと思って、浴衣もののAVを仕入れてきてるんだ。これから、俺の家で鑑賞会と決め込もうぜ」 「流石だな幹太、常に先を見据えている」  二人の見当外れなバカ話を聞きながら、俺は無理やりに笑顔を作った。  その作り物の笑顔が、本当の笑顔に変わった頃、俺は紗代より少し遅れてオトナになれるのだろうか。  今はまだ、この失恋の痛みを忘れる事は出来なけど、いつの日かきっと――  
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