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「男たるもの、凡俗の濁流に決して流されることなく、ひたすらに求道すべし」
この言葉は、いつの時代のものだと思う? 戦時中? あるいは戦前? もしかしたら、江戸か戦国時代か? どれもハズレだ。これは、現代日本に生きる、いや、つい最近まで生きていた男が、俺の幼い頃から「心得」として説いていた言葉。はっきり言って時代錯誤も甚だしい。こんな信念を真顔で言おうものなら、全く笑えない冗談にしかとらえられないだろう。だが、だ。もし、一番身近にいる家族、兄貴がこれを真面目に信仰し、弟である俺に物心ついた頃からきつく教えていれば、どうなるか? 答えは簡単だ。いかに古臭かろうが、今どきでなかろうが、世間一般からずれていようが、俺もそのように教育されてしまう。兄貴、敬一郎がどこでこんな、よく言えば硬派、悪く言えばタチの悪い宗教のような思想を持つに至ったか? 恐らくも何も、それしか原因は考えられないんだが、俺の親父が兄貴のお手本だった。おふくろといつもケンカしてたっけな。そしてある時、おふくろは親父に愛想を尽かして家を出ていった。親父は、絶望したからだろうか? そのとち狂った自分の信念を、いっそう強く信仰するようになった。まあ、本人の当時の心境など、当時であれ今であれ、息子の俺にはまるっきり分からない。ただ、束縛と抑圧がいっそう強まったことだけは確かだった。いつも窮屈だった。心が休まらなかった。普通の温かい家庭に生まれたかった。ないなら作る。いつか作りたい。いつしかそれが、俺の密かな夢になった。親父と、兄貴と、俺。男だけの、家族三人で、しばらく過ごした。親父は、戦争も知らないくせに、日頃から言っていた。
「贅沢は敵だ!」
一事が万事その調子だったから、おふくろがいなくなってからは、俺達子どもは、満足な食事を与えられなかった。外出も厳しく制限されていたので、子ども食堂にも行けなかった。今にして思えば、よく栄養失調で死ななかったもんだ。もしかすると、ギリギリ最低限度は、親父も考えていたのかも知れない。断じて「幸せな食卓」じゃなかったが。そして兄貴は、その上を行っていた。どういう精神力をしているのか、粗末な食事しか与えられずにやせ細っていっても、目だけがギラギラと輝いていた。そんな兄貴のまさしく鬼気迫る顔が、幼かった俺の脳裏に、未だにこびりついている。当然、そんな生活をしていれば行政が黙っているわけがない。児童相談所の人間が頻繁に家を訪ねてきたが、親父はその都度、激昂して怒鳴り散らし、時には刃物まで振り回して、詳しい調査をさせなかった。そこまでエスカレートすれば、今度は警察が動くのはまた当然だ。児童相談所からの通報を受けた親父は、保護責任者不保護、および、激しく抵抗もしたため、公務執行妨害のオマケ付きで逮捕された。人づてにしか聞いていない話だが、親父は警察の取り調べに対しても、訳の分からないことを言うばかりだったそうで、精神鑑定の結果、病院へ措置入院となった。やはりと言うべきか、親父は病んでいたんだ。いつから? あるいはなぜか? は、知る由もない。そして、家から親父がいなくなった。ちょうど俺は、小学校を卒業する頃だった。保護者がいなくなったんだから、てっきり施設に移るかと思っていたんだが、兄貴が「自分が弟の面倒を見る」と言い張り、俺は引き続き家で過ごした。もし親父よりマシなことがあったとすれば、兄貴には、どこで覚えたのか多少料理の心得があったことだ。だが、メニューは総じて禅僧のように質素だった。兄貴は平然と言った。
「これも修行だ」
俺は納得する以上に、全く笑っていない兄貴の目が怖くて、何も言い返せなかった。やがて俺達は、精神病院での親父の自殺を知ることになる。閉鎖病棟内で、舌を噛み切って死んだらしい。親父の葬儀は、まるっきり実感がなかった。最大の抑圧元がいなくなったんだから、少しは楽になれたかなと一瞬は思ったんだが、まだ兄貴がいた。兄貴は、俺の行動を厳しく制限した。それこそ俺の一挙手一投足に至るまでに目を光らせた。生活そのものは、家が持ち家だったことと、どうやって稼いだのかが今でも謎なんだが、親父の遺産があったので基本的な不自由はなかった。だが、窮屈さは相変わらずだった。兄貴の目はいつもギラギラしていて、まるで、存在するはずもない敵と常に戦っているようだった。兄貴はくどいぐらいに繰り返した。
「尊道、真の男への道は険しいぞ。精進を怠るな」
じゃあその「真の男」って? と兄貴に聞いたことがある。答えはほぼいつも通り「凡俗のくだらぬ些事に囚われず、度量を大きく持つこと」だった。確かにそれは「男らしさ」と言えるが、やはり古くさすぎるだろう。そんな家庭環境だったから、俺の小中高での周囲からの評価は「クソ硬派な奴」。しかし、内心は鬱屈した気分ばかりを溜め込み、いつか、この牢獄のような家から逃げ出すことばかりを考えるようになった。そしてその時は、意外に早く訪れた。二ヶ月前、兄貴が死んだ。何の前触れもなく。しかも、兄貴の二十歳の誕生日に。近所の商店街で発生した、狂った通り魔による無差別殺人事件の犯人から、見ず知らずの男の子をかばって。マスコミには英雄扱いされたが、俺としては複雑極まりない心境だった。親父も、兄貴も、頭のネジが何本か行方不明だった。何かに取り憑かれていたとしか思えなかった。ある側面においては、兄貴は己の(恐らく)理想的な死に様を実践できたのかも知れない。だが、あえて冷徹に断ずれば、そんな高邁な自己犠牲の精神で自分が死んでりゃ世話はない。かくして、俺を縛り付けていた二人はいなくなった。理不尽な抑圧から、解放されたんだ。荼毘に付され、一筋の煙に成り果てた兄貴を見上げ、奇妙に晴れやかな気分だった。なんと言っても、自由を手に入れたんだ。生活に必要な金銭は、親父の蓄えがまだ十二分にあった。大学の学費ぐらいは余裕で払える。今は、高校の卒業を間近に控えた十七歳。大学受験はそれなりに努力をして、幸いなことに合格したので、この四月からは大学生だ。勉強よりも、プライベートを楽しみたかった。一人暮らしになった分、いつでも好きなものが食えるし、なんなら練習は必要だが自炊だってできる。そして、遊べる。もっと言えば、恋がしてみたかった。なにせ生前の兄貴は険しい顔で豪語していた。
「色恋は男を堕落させる! 断じてすべからず!」
今でも忘れられないが、中学時代の俺が「彼女が欲しいなあ」と何気なく言った時なんざ、文字通りのボコボコになるまで殴られた。だが、もはやそんな心配は全く要らない。めでたいことだ。……苦さしかない過去を、俺は、高校の卒業式の日、校長の祝辞を聞いている間に思い返していた。
そして、卒業式の一通りが終わった。家庭環境と、先に述べた周囲の評価などから、友人はいない。だから、大学に入ったら友達も作りたかった。さっきも言ったが、叶うなら、恋もしてみたかった。誰かを愛したかった。それまでが縁遠かった分「恋愛」というものは、俺にとって強い、強い憧れだった。ついでに言えば、ぶっちゃけてセックスがしたかった。俗な言い方をすれば、野望と下心に満ち満ちていた。この、後先を考えない、ある種の浅ましさとも呼べる姿勢が、後の俺を破滅させることなどつゆ知らず、都合のいいことばかりを考えていた。
「ねー、石動くーん?」
卒業証書の筒を手に、高校の門を出ようとした時、妙に軽い声に呼び止められた。振り向くと、そこには、どこをどう探しても、俺との接点など皆無な、チャラい女子が立っていた。金色に染めた長い髪。ツインテールでまとめてはいるが、髪留めが、グロテスクな目玉をモチーフにしており、可愛さからはかけ離れている。顔立ちも、不細工ではないが、いかにも軽薄そうだった。全体的には、どちらかと言うとあどけない部類に入るだろう。だが、高校生の分際でこってり化粧をして、コロンか何かは知らないが、鼻につくニオイを振りまいている。一言で言えば、けばけばしいギャル女だった。もし、この化粧と悪趣味さの一切がなければ、ここまで悪い第一印象は持たなかっただろう。なぜかは知らないが、残念な気持ちを覚える。記憶が定かなら、この女は、同じクラスだったはず。だが、それ以上の共通点は、毛先ほどもないはずだ。
「なんだ?」
しかし、わざわざ呼ばれたのを無視するほど、俺も無礼じゃない。とても苦手なタイプではあるが、まあ、宇宙人と思っておけばいいだろう。女が言った。
「石動くん、制服の第二ボタン、あーしにくんない?」
「はあ!?」
思わず、素っ頓狂な声が出てしまった。いかに世俗に疎くとも、今、この女が要求している行為が持つ意味ぐらいは知っている。
「くんない?」
もう一度言って、女が小首をかしげる。いや別に、制服のボタンぐらい、くれてやるにはやぶさかじゃない。だが、なぜ俺なんだ? 女の真意がはかりかねて、少し間をおいてしまう。
「……ダメ?」
女が、少し残念そうな顔をした。いかん、これでは、この女にひどい仕打ちをしたように見えてしまう。少し慌てる心を隠し、平静を装って女に言った。
「いや、誰もそうは言っていない。こんなものでよければ、くれてやる。しかし、だ」
「しかし、なに?」
「俺は、お前の名前を知らん」
「ガーン! それってチョーひどくない!? あーし、クラスメイトだったのに!?」
オーバーアクションで、衝撃を受けた様子を表す女だった。大げさな奴め。
「そうであることは知っている。だが、本当に、お前の名前は知らん」
「多賀能! 多賀能祥智だよ!」
「そうか、分かった。それでいい。では、くれてやる」
おもむろに制服の第二ボタンをむしり取り、多賀能と名乗ったギャル女に手渡した。彼女の手の爪には、やはり派手なラメの入ったブルーのマニキュアが塗られており、明確な過剰感を醸し出していた。
「ありがと!」
だが、受け取る際に見せた、多賀能の屈託のない笑顔が、妙に心に引っかかった。たった今名前を知ったばかりの女なのに、その笑みはどこか懐かしく思えた。その理由が分かるのは、ずっと、ずっと後のことになる。
かくして、俺は高校を卒業し、きっと訪れるであろうバラ色の大学生活に胸をときめかせていた。その予感は過剰なまでに現実化する。そう、過ぎたるは及ばざるが如し、を地で行くように。
*
――その日、晩夏のある昼下がり。天気予報が嘘をついた。いや、正確には予測ができないゲリラ豪雨が、手垢の着いた表現だが、バケツをひっくり返したような情景を作り出していた。渋谷。ハチ公前。ありふれきった待ち合わせ場所だったが、俺は待っていた。傘なんぞ持っていなかったから、ピンポイントの豪雨を頭から浴び、それも気にせず、待っていた。真っ白な視界の中、こちらへ走ってくる影があった。女のそれだった。
たっ。
たっ。
たっ。
たったったったったっ……!
長い亜麻色の髪を同じくずぶ濡れにして、俺の所へ。よかった。約束通りに来てくれた。俺の求める女性が。
「……ッ……!」
彼女と、ずぶ濡れの、無様にも思える抱擁を交わした。雨は、まだ降っている。だが、腕の中の温もりが、こんなちゃちな天気のことなんか忘れさせてくれた。
長かった。ほんとうに長い、長い回り道だった。
「ぐすっ、えぐ、うえええ……」
胸の中で嗚咽を漏らし続ける彼女。俺も、泣いていた。みっともないぐらいに泣いていた。咆哮のように泣いていた。
――ゆっくりと、時は戻り始める。
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