半分この甘露

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 その日。俺は死ぬ覚悟を固めていた。入社して丸一年。心身はとうに摩耗し果て、これ以上は絶対に無理だった。今日の終電に飛び込んで、死のう。自分でも分かる土気色の顔を感じつつ、駅へ続く地下街を歩いていた。その時、いつもは通り過ぎるだけの人垣が、やけに気になった。誰かは知らんが、ストリートミュージシャンが、ギターを弾きながら歌っているのは知っていた。随分人気らしいが、別に関係ない。だが、その夜は違った。やけにその歌が胸に刺さる。耳をそばだてる。ラブソングだった。純粋だった。俺自身忘れていた、いや、もしかするとハナから持っていなかった、純粋で綺麗な歌詞だった。歌は、遠いどこかにいる想い人へのラブレターの朗読、という体裁を取っていた。いい歌だと、心底から思えた。妙な感覚を覚えた。もしかしたら、自分の知っている誰かが歌ってるんじゃないか? そんな気がしてならなかった。人垣をかき分けて、歌い手の顔を見たくなっていた。見た。記憶にない女だった。その事実に、なぜかひどく落胆した。だが歌を聞き、いつしか、感動してほろほろと涙を流していた。死のうという気はすっかり失せていた。足下には、おひねり入れのギターケースがあった。ためらわず、財布から万札を一枚出して入れた。 「うわ、ありがと……」  それを見た女が、俺に気づく。が、瞬間、表情が凍り付いた。何か、ひどく驚いている……と言うか、愕然、といった表情に見えた。  演奏が途切れた。俺は言った。 「あ、ああ。気にしないで、続けてくれ」 「は、はい……」  聴衆の輪に加わって腰を下ろし、彼女の歌に聴き入っていた。心なしかぎこちなくなった感じだが、文字通り沁みる歌だった。 「こ、今夜もありがとう、ございました……」  どこか歯切れが悪く、歌い手の女性が言った。いたく動揺しているようだが、理由までは知るよしもない。俺はただ、聴衆に交じって盛大に拍手し、立ち上がった。終電はもう出た後で、駅前のカプセルホテルで一夜を明かした。  翌日は、会社を無断で休んだ。ただ、もう一度昨夜の歌声が聞きたい。その一心だった。ところが、彼女は来なかった。同じお目当てに集まっていた他の聴衆達も、不思議そうに顔を見合わせていた。次の日も、その次の日も、彼女は現れなかった。俺は、無断欠勤が続いたせいで、あっさりと会社をクビになった。無職になった事ぐらい、別にどうということはなかった。最低限の義務として、まあ当り前の話だが、雇用保険は結んでいたので、数日後に離職票が届き、ハローワークで失業手当の受給申請をやった。会社都合だから、給付制限もない。急いで次の職に就くことよりも、ただ、少し休みたかった。二十八日サイクルで二回の求職活動は正直面倒だったが、できるだけこまめにハローワークの窓口へ出向き、職員と少し相談することで給付の条件を満たせた。心身共に参り果てていたせいか、ハローワークへ行く以外、家ではほぼ一日中寝て過ごした。食事は、仕事をしていた時は主にコンビニ弁当だったが、買いに出るのが億劫だったので、冷凍の宅配サービスを使った。さすがに、米ぐらいは一人で炊ける。そして夜になると、地下街へ必ず行った。彼女を探すために。できれば、あの時、死を思いとどまらせてくれた礼を言うために。だが、いつ行こうが、彼女はいなかった。無性に胸が締め付けられた。その理由が分からなかった。ただ、ひたすらに寂しさを覚えた。  そして、三ヶ月ほどが経った、ある夜のことだった。その日も、彼女はいなかった。いつも彼女が座っていたはずの、百貨店のシャッター前に立ちすくんでいると、一人のメガネの男が話しかけてきた。 「あなたも、あの彼女を探してるんですか?」 「えっ? あ、はい」  見たところは四十代後半だろうか? 全体的に野暮ったい印象だが、身なりについてなんぞどうでもいい。男が続ける。 「僕もそうなんですよ。でも、彼女がここに戻ってくるのには、時間がかかるかも知れません」  何か、わけを知っているような口ぶりだった。気にならないはずがない。 「どういう意味ですか?」  少し焦りがちに聞き返すと、男は、薄い苦笑いを浮かべながら言った。 「いや、実は僕、心の風邪を引いてましてね。この近くの心療内科に、定期的に通院してるんです」  彼女の行方とは無関係のような話になり、少し焦れた。だが男は、淡々と続けた。 「この間の通院日のことです。どういう偶然か、あの彼女と、待合室で鉢合わせしたんですよ」 「えっ?」  彼女が、心療内科に? 全く無縁に思える……のは、思い込みだろう。人間、何が原因でストレスをこじらせるか知れたもんじゃないし、かく言う俺自身、ブラック企業に勤めていた頃、精神科の門を叩きたくなった時はいくらでもある。 「彼女と、話せましたか?」  とにかく本人の現状が知りたくて、期待感を込めて男に聞いてみた。 「それが、すみません。彼女の憔悴ぶりがあまりに痛ましかったもので、声なんてかけられる雰囲気じゃなかったんですよ」 「そ、そうですか」  憔悴? なぜ? 彼女はそりゃあ無名かも知れないが、固定ファンをガッチリ持ってる、ひとかどのストリートミュージシャンだろう? 彼女を見たのはほんの一回だが、ヤジの類が飛んでいた覚えはない。まったくもって、理由が分からない。混乱しているところへ、男が真面目な面持ちで言う。 「我ながら下世話だとは思ったんですけどね、彼女の診察が終わって、受付で会計をしているときに、聞いたんですよ。入院についてはどうのこうの、と……」 「入院?」  そこまでひどいのか? いや、ストリートミュージシャンってのも、俺が思う以上にストレスを抱え込みやすいのかも知れない。全ては憶測に過ぎないが。なおも男が続ける。 「仮に精神病院へ入院となると、まあ僕も経験があるんですが、いつ出られるか分かりませんよ。身体のケガじゃないですからね」  男の言葉には、説得力があった。しかし、どれぐらいの入院が必要なんだろう? 「あの、失礼ですけど、あなたはどれぐらいの間、入院を?」 「僕ですか? 奇跡的に三ヶ月で済みましたが、中には、その……悪い言い方になりますが、もう一生出られないだろうな、と見受けられる方も。おっと! 彼女がそうなるとは言ってませんよ?」  一生入院生活、と聞いて、誇張抜きでめまいを覚えた。しかし、だ。次に取るべき行動が、ぼんやりとだが見えてきた気がした。 「彼女の名前、なんて言うんですか?」 「僕もフルネームまでは知りませんけど、クリニックの受付では『タガノさん』って呼ばれてましたね」 「……ッ……!」  息を呑んだ。なんてことだ。予想外の所で点と点が繋がった。ここで見た、彼女の顔をもう一度思い出せ。そして、高校の卒業式で俺に第二ボタンをねだったギャルの顔も。あのけばけばしいメイクを引き算してみろ。彼女じゃないか。多賀能祥智! 間違いない! 震える声で、男に聞いた。 「さ、差し支えなければ、あなたが彼女を見たという、クリニックの名前と場所を教えて頂けませんか?」 「ああ、それでしたら、この地下街の『D13』出口を上がってすぐのWビルにある、Tクリニックですよ。四階です」 「ありがとうございました!」  有益な情報が得られた。翌日、そのクリニックまで足を運んだ。そして、受付で「多賀能祥智という女性が通院していないか?」と言うことを聞いてみたんだが、「患者のプライバシーに関わることは教えられない」と、あっさり断られた。だが、諦めきれない。試しに、スマホでそのクリニックのウェブサイトを見てみた。すると「リンク」のページに「提携先病院」として、別の精神病院のサイトへ飛ぶことができた。そこを見てみると、入院も受け付けているという紹介があった。確証なんてもんはない。だが、多賀能がここへ入院している可能性は高い。しかし、事前に電話で事実を確かめたくても、やはりプライバシーを盾に断られるだろう。さらに、普通の、つまり身体の病院じゃない。面会に何らかの制限があってもおかしくないとは思う。だが、この点については杞憂に終わった。多賀能が入院していると思しきその病院では、面会に明確な制限、例えば「血縁者のみ」などといった制約はなく、むしろ面会を奨励する旨が、ウェブサイトに書かれていた。ただし「患者を動揺させたり、不安にさせるな」という注意書きがあった。この点ばかりは何とも判断が付かないが、とにかくだ。その病院に多賀能がいるという前提で動こう。もしいなければ、すっとぼけて引き返せばいい。その代わり、あの時の地下街で彼女を思い出せなかったことが、恐らく死ぬまでの後悔になるとは思うが。
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