半分この甘露

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 ――どうして、あたしが、精神を病むに至ったか? について、話そうと思う。一言で言うなら、さっき言った通り、「気まぐれな神様が放った、炎の矢」だ。夢のために全力で自己欺瞞をして、数多の男達の欲望のはけ口に成り果て、あたしの心は、既に蝕まれ始めていた。持ち前の気力と根性でなんとか自我を保っていたところへ、最愛の想い人の、尊道君が現れた。……最初は、夢さえ叶えば、彼への不義は、再会しても墓場まで持って行くつもりだった。けど、そこまであたしは、図太くはなれなかった。割り切ったはずの罪。夢の実現という大義名分の下に、己を散々安売りした罪。想い人を裏切り続けた罪。それらが、怒濤のようにあたしの中で牙を剥いて暴れ回り、あたしを、一息に壊してしまった。彼と対面した夜、帰宅したあたしは、そのまま寝込んでしまい、何日も食事さえできず、ただただ、惑星よりも重い罪悪感に責め苛まれていた。いっそ死にたい。けど、死んだら尊道君に会えない。その一心で、精神科へ初診の予約電話ができた。あたしを診た精神科の医師は、一目で重篤なうつ病と判断し、即刻の入院を勧めたというわけだ。 *  日を改めて、俺は病院へ向かった。場所は随分へんぴな山の中で、真っ先に脳裏をよぎったのは「隔離」という言葉と、憤怒に歪んだ、生前の親父の顔だった。背筋を、冷たいものが伝った気がした。とにかく、電車とバスを乗り継いで、病院へは到着した。緊張しつつ、受付に向かう。確か、面会カードさえもらえればOKだったはずだ。若干よそ行きの声で、俺は受付の担当者に言った。 「あの、ここに、多賀能祥智という女性が入院していると思うのですが」 「多賀能さんですね。ご面会の方ですか?」 「あ、はい」  よかった、当たりだったようだ。多賀能がここにいる、と分かり、奇妙な胸の高鳴りを覚えていた。相手は今、病んでいるにもかかわらず。 「では、こちらにお名前をお願いします」  言われるまま、面会者リストに自分の名前を書く。すると、受付の看護師が、少し目を見開いた。 「お名前は、なんとお読みするのですか?」 「えっ? あ、いするぎ、たかみち、ですが」 「たかみち……ですか。少々お待ち頂いてよろしいでしょうか?」 「は、はい?」  なんなんだ? 俺の名前と面会に、何の関係があるんだ? わけが分からないが、看護師は、奥の内線で何かを話しているようだった。だが、やがていやに神妙な面持ちで戻ってきた。 「よくいらして下さいました。では、こちらが面会カードです。面会室へご案内致します」 「お、お願いします?」  なんだ? よくいらしてくださいました、だと? なぜそんな言い回しなんだ? 血縁者でも何でもない、もっと言えば、友人ですらない男だぞ? だが、その理由は程なく分かることになる。  面接室は、狭い部屋だった。広さで言えば四畳間程か? 中央に横長の机があり、それを挟んでオフィスチェアが二対。天井には監視カメラが付いていた。特別に息苦しいわけじゃないが、妙な圧迫感を感じた。 「お掛けになってお待ちください」  そう言われ、奥の椅子に座って素直に待つ。やがて、医師らしき壮年の男に連れられて……多賀能が入ってきた。げっそりとやつれていた。到底、あの地下街で活き活きと歌を歌っていた彼女と同一人物だとは思えない。病状は、深刻なようだった。その多賀能が、俺を認めた。 「たか、み、ち……くん……? うそ……」  虚ろな目で、あたかも幽霊でも見ているかのように言う彼女。その声の力なさが、いっそう痛ましかった。その顔のまま、のろのろと多賀能が椅子に座る。傍らの男が口を開いた。 「本来は、面会には看護師が同席するのですが、今回は例外です。理由は、すぐに分かるかと思いますので」  どこか祈るような面持ちで男は言った。そして、音も立てずに席を外した。  俺と、多賀能。二人きりになる。彼女は、口を開くより先に、その瞳から大粒の涙をぼろぼろと溢れさせた。 「ごめんね……ごめんね、尊道君……ごめん……ごめん……」 「お、おい?」  全く分からなかった。なぜ、多賀能は俺に泣きながら謝るんだ? むしろ謝るべきは、あの地下街で彼女を思い出せなかった俺の方だろう? 「あ、あのさ、多賀……」 「ごめんね……ごめん、ごめん、尊道君……あたし……あたしぃ……えぐっ、うええ……」  しかし多賀能は、滝のように涙を流し、ただただ、謝るだけだった。どうするべきか、まるで分からない。そのまま、嗚咽と、謝罪の言葉が延々と続いた。それはもう、延々と。困った。こっちが何を言っても、同じ言葉の繰り返しだ。具体的にはまるっきり見当が付かないが、多賀能は俺に対して、よっぽど負い目があるらしい。それが一体何なのか? もちろん知りたかったんだが、今の多賀能から漂っている、あまりの痛ましさを感じると、到底そんな気にはなれなかった。 「ぐずっ……会いたかったけど……会いたくなかったよぅ……」  オマケにこんなことを言われちゃ、ますますもって分からない。 「……多賀能。俺はお前に会いたかったよ」 「うえぇ……ありがと……あたしも……でも……でもぉ……うわああああっ!」  錯乱気味に泣く声。まずい。動揺させたか? 確か、面会でのタブーだったはず。どうする? 考えた結果、思い至った。多賀能は、俺に会いたがっていた。相反する言葉が出てくるぐらいだから、深い心境までは分からない。だが、基本はそうであるはずだ。なら、まずは彼女に「俺と連絡が付く」ことを分からせてやった方がいいんじゃないか? 手持ちのメッセンジャーバッグの中からメモ帳とボールペンを取りだし、自分のメッセージアプリのIDと、携帯番号を書いて、そのページを破った。机の上を滑らせ、多賀能の目の前に差し出す。 「多賀能。俺の連絡先だ。落ち着いたら、かけてきてくれ。いつまででも、待ってるからな。約束してくれ。俺と」  不思議なことに、かなりキザなセリフが自然に出てきた。多賀能は、真っ赤に泣きはらした目を見開き、ふるふると震える手で、メモを手に取った。もう一度、言う。 「待ってるぞ。約束、してくれるか?」  照れ隠しに、左の小指を差し出してみた。すると、彼女もゆっくり左の小指を出し、絡めてきた。 「ゆーびきーりげーんまーん……うそついたら、えーっと……」 「どうする?」 「うそ……つかない、から……」  そこで初めて、彼女は泣きながら微笑んだ。純粋に、超がつくほど愛らしい笑みだった。あの高校での卒業式の日。俺から第二ボタンを受け取った時にも勝るとも劣らない。頬がこけてなけりゃ、百万ドルの笑みと言えただろう。ときめきを覚えつつ、指をほどく。 「待ってる、からな」 「うん……!」  彼女がうなずいたタイミングで、医師とは別の女性看護師が入ってきた。 「さ、多賀能さん。お部屋に戻りましょう。それから、石動さん?」 「えっ? あ、はい?」 「少し、お時間を頂けますでしょうか? 先生から、お話があるそうです」 「わ、分かりました」  医者が直々に、俺と話? なんなんだ? 訝しんでいる間に、多賀能はメモを握りしめ、面会室を出て行った。  そして、診察室。あの壮年の医師と、椅子に座って対峙していた。いや、別にケンカじゃないんだが。医師が言う。 「石動さん、今日は本当に、よくぞいらっしゃいました。ありがとうございます」  ずいぶん丁重な礼だった。ますますわけが分からない。 「それは、どういう意味ですか?」  率直に聞くと、医師は複雑そのもの、といった面持ちになった。 「はい。多賀能さんはここへ来てから、いえ、初診の頃から、事ある毎に『タカミチ君、ごめんね』と言っているのです。かろうじて『彼を裏切ってしまった』という事実は本人の口から聞けましたが、私どもも、ではその鍵であろう『タカミチ君』という男性がどこにいるのか? 連絡が付くのか? が大変気になっておりまして」 「そうだったんですか……」  多賀能が俺を裏切った? どういう意味でだ? そこが依然分からない。その疑問は、とりあえず棚上げしておこう。 「失礼ながら、面会室では席を外しましたが、お二人のやりとりは、音声付きの監視カメラで一部始終を拝見しておりました。やはり石動さんが、多賀能さんの言う『タカミチ君』であるという確信の持てる光景でした」  絶望の中で一条の光明を見たかのように、医師が言う。見られていたことは場所柄許容できるが、大きな疑問がある。 「あの、ご覧になっていたならご存じかと思いますが、俺の行動は正しかったんでしょうか?」  その問いには、医師は自信ありげな笑みを浮かべた。 「恐らくですが、最善の策だったかと。よくやってくださいました」 「は、はあ」  そこまで褒められたものか? とも思ったんだが、悪くはなかったようで、ひとまずは安心した。そして医師は、「しかし」と前置きして続けた。 「あのメモが、多賀能さんの心の支えになることは間違いないと思われます。ですが、特効薬という意味でもありません。多賀能さんが寛解、つまり治って元通りになるのか? なれるのか? それは誰にも分かりません。当然、私どもも手は尽くしますが」 「ですよね……」  身体にせよ心にせよ「飲めばたちどころに治る」薬なんざ、俺の知る限り「頭痛にロキソニン」ぐらいしかない。全ては、多賀能次第ってことだ。医師は、極めて真面目な顔で言った。 「ですが今日、小さくはない一歩を進めたと、私は確信しております。重ねて、ありがとうございました。以上です」 「は、はい。こちらこそ」  やたら感謝されて妙な据わりの悪さを感じつつ、とにかく、病院を後にした。外に出ると、夏の暑い日差しが、やけに眩しかった。
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