半分この甘露

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 ……その日の夜、夢を見た。夢の中の俺は幼く、周囲の景色と視線の低さからすると、幼稚園時代の光景らしかった。そこに、一人の少女が出てきた。屈託のない笑顔だった。その子は言った。 「たかみちくん、あたしね、おおきくなったら、たかみちくんのおよめさんになる!」 「ありがとう、さっちゃん。うれしいな」  少女が、幼い頃の多賀能だということが分かった。さっちゃん? さっちゃん……。その時、ようやく思いだした。俺と彼女は、幼稚園が同じで、すごく仲がよかったんだ。いや、お互い幼いながら、淡い恋心を抱いていた。だが、彼女の家の都合で、俺達は離ればなれになった。いつしか俺の中から彼女の記憶は薄れ、高校での再会に、まるで気付かなかったんだ。  ……なんだよ。なんてひどい男なんだ、俺は。多賀能……いや、さっちゃんは、あの頃から変わらぬ愛を、俺に抱き続けているんだろう。なら、制服の第二ボタンを欲しがったのもよく分かるし、「俺を裏切った」ということで、何らかの強い罪悪感に苛まれているのも分かる。俺はどうだ? たとえその不義がはっきり分かったとしても、彼女を責めることができるか? できるはずがない。大切な思い出をすっかり忘れ去って、刹那的な肉欲に溺れて……本当は、合わせる顔、いや、会う資格すらないんじゃないか?  そこで目が覚めた。天井を仰ぎながら、一筋の涙を流していた。さっちゃんが恋しかった。洗いざらいをぶちまけて、懺悔をしたかった。それでもし、彼女が許してくれなければ、その時こそ、死んでもいい。枕元のスマホを見る。着信履歴はない。当たり前か。重たいため息を一つ吐いた。  それから、まさしく「一日千秋」の思いで日々が過ぎていった。何とかまっとうな会社に転職が叶ったが、常に自分のスマホを気にしていた。夏が過ぎ、秋が来て、冬になり、また春が来た。彼女からの連絡は、なかった。会いたい気持ちは日ごとに正比例で増していき、胸を掻きむしらん程だった。たまりかねて、もう一度、あの病院へ向かった。だが、彼女は既に退院したという話だった。それならそれで喜ばしいことだが、じゃあなぜ、連絡をくれないんだ? かなりのショックだったが、信じて待ち続けるしかなかった。  やがて、メモを渡してから一年が経とうという、晩夏のある週末の、昼下がりのことだった。知らない番号から、着信があった。もしやと思って、出た。果たして、多賀能だった。弱った身体を回復させるために、退院後もしばらく自宅で静養していたから、連絡が遅れたと言うことだった。だが、その声は沈んでいた。なぜかを聞いたら、彼女は自分の「罪」をぽつぽつと話してくれた。夢のためにパパ活に手を出し、数多の男と関係を持ったこと。多少は驚いたが、こっちも似たようなもんだ。俺も彼女に、自分の罪、つまりヤリサーでの肉欲まみれだった過去を話した。電話越しでも分かる、重い沈黙があった。それでも、『会いたい、よぅ……』と、切な多賀能の声。断れると思うか? 俺だって会いたいんだ。狂おしい程に。俺は即座に待ち合わせ場所と時間を決めて、彼女が『うん』と言ったのを聞いてから電話を切った。 *  ――渋谷。ハチ公前。土砂降りのゲリラ豪雨は、まだ続いていた。俺と多賀能、いや、祥智は固く抱きしめ合ったまま、互いに泣きじゃくっていた。胸の中の祥智が言う。 「ぐずっ、あたし……汚れちゃったよ。とことん。ごめ……」  謝ろうとする祥智を遮って、叫んだ。いや、吠えた。 「構わん! どれほど汚れていようが! 最後に! 最後に俺の側にいてくれるなら! それに、汚れている事が罪ならば! 俺もお前に合わせる顔などない!」 「ひっく……じゃあ、おあいこ?」 「ああ! そうだとも、その通りだとも!」  号泣しながら、強く、強く祥智を抱きしめた。周囲は、ドラマの撮影か何かだと思っているのか、妙な視線で俺達を見ていたが、そんな事はまるっきり気にならなかった。 「すまなかった、祥智。さっちゃん。今なら言えるよ。俺は、お前が好きだ!」 「尊道君……! んっ……」  一切のためらいなく、祥智にキスをした。掛け値無しの、ファーストキスだった。そう。大学のヤリサーでは、セックスはしてもキスは誰ともしなかったんだ。そこに愛はないのだから。だが今、確かな愛を実感し、天にも昇る気持ちだった。長いキスを終えた頃、雨が止んだ。お互いの涙も止んではいたが、揃って靴の中までずぶ濡れだ。 「……へくちっ!」  祥智が、ずいぶん可愛らしいくしゃみをした。身体が冷えていた。何か、温かいものが二人で食べたいな。 「祥智、あったかいものでも食おう。リクエストはあるか?」  柔らかな笑顔で問うと、祥智ははにかみながら言った。 「肉まんがいいな、コンビニの。一つもいらないから、半分こしよ?」  そんなもので? と言いかけたが、文句を付ける理由はどこにもない。揃って濡れ鼠のまま、近場のコンビニに入った。店内には、まだ昼間は暑いのに、本部からの指示だろう、レジの横に肉まんを蒸かす機械が、若干居心地悪げに置かれていた。俺は、普通の肉まんを一つ買った。店員は極めて事務的に、俺達がずぶ濡れなのもまるで気にせず、マニュアル通りの言葉で商品を渡した。 「あちちっ、そら」 「うん、ありがとう」  店を出たところで、肉まんを半分に割り、祥智に渡す。彼女は、勢いよくそれにかぶりついた。純粋に、可愛らしい仕草だった。  ――あたしは、その半分の肉まんに、途方もなく感動していた。美味しい。ものすごく美味しい。今まで食べたものの中で、間違いなく一番美味しい! そうだ。何とも思ってない相手と食べる高級フレンチのフルコースよりも、大好きな人と食べる肉まん半分この方が、何倍も、何百倍も、何万倍も美味しいんだ! 「おいしい、おいしいよぉ……ぐずっ……」  あたしは、またぐしゃぐしゃに泣きながら、大事に、大事に肉まんを食べた。これこそ、天国で食べる食事、まさしく甘露。初めて、心も身体も、暖かく満たされた。幸せで、卒倒しそうだった。尊道君は、優しい眼差しで、あたしを見つめていた。  それから程なく、あたしは、音楽活動を再開した。だが、聴衆というのは案外薄情なもので、あの時と同じ地下街に座っても、以前のような人垣はできなくなっていた。でも、そんな事でくじけるあたしじゃない。こつこつと活動を続け、二年も経つ頃には、またたくさんの人々に歌を聴いて貰えるようになった。やがて、噂を聞きつけたレコード会社の人間が、あたしに、メジャーデビューを持ちかけた。やっと夢が叶おうとしている。断る理由なんて、天王星まで跳んでいっても、ない。
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