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第2話 耳をつんざく攻撃的な音色
講堂に続く廊下を、独り歩いている。
みんなサークル活動に出払っているのだろうか、誰ともすれ違う事がない。講義が終わるといつもすぐに学校を出てしまうから、こんな時間に廊下を歩くのは久しぶりだ。慣れない雰囲気に戸惑ってしまう。
廊下の窓の外に、大きな銀杏の木がある。夕日を浴びて金色に輝きながら、はらりはらりと葉を散らしている。風に吹かれて、何枚かの葉が窓から舞い込んできた。一枚を拾い上げ、指先で茎をよじるように回してみる。
銀杏の葉って、こんな形をしていただろうか……。何度も目にしているはずなのに、初めて見る物のように感じる。扇状に広がった葉の中央には、一枚の葉を二つに分かつかのように、大きな切れ込みが在る。見方を変えれば、二枚の葉が融合して、一枚の葉になったようにも見える。確か銀杏の葉の形を、恋人の関係に例えた詩があったはずだ。ゲーテだっただろうか。思い出せないままに、手にした葉を窓の外へと放った。
まぶしく夕日に染まる視界のせいか、現実から切り離されてしまったように感じる。地に足がついていない感じ……薄い膜で覆われてまい現実に触れられない感じ……冷たく冷えきった指先だけが唯一、現実と繋がっているかのように感じる。
しかし、講堂にショールを忘れてくるとはウッカリしていた。帰り道で気づいたのは、良かったのか悪かったのか。いっそ気づかぬまま帰宅していれば、あきらめもついただろうに……。
講堂に入ると、ワタシの座っていた席にショールが在った。夕日に染まる講堂で、ワタシの青いショールだけが異質だった。在ってはならないものを回収するかのようにショールをつかんで、あわてて講堂を出ようとしたときだった。その音が不意に、耳に飛び込んできた。
遠くに聞こえていた運動部の掛け声や吹奏楽部の楽器の音を切り裂くようにして、その音は突如として響き渡った。ノイズのように歪んだ鋭い音が耳を刺す。ギターだろうか。素早く細やかなフレーズと、伸びのあるビブラート……相反するコントラストに魅了され、思わず聴き入ってしまう。誰が弾いているのだろうか……そう思った次の瞬間には、音のする方へ向かって走りだしていた。
この部屋だ。軽音楽同好会と書かれた部室の前に立つ。ドアが開きっぱなしになっている。恐る恐る室内の様子をうかがう。女の子の後ろ姿が見える。窓から射しこむ夕日を背にして、ギターをかき鳴らしている。
耳をつんざく攻撃的な音色。指先がフレットをすべるたび、ピックが弦をはじくたび、音の粒がワタシを撃ちぬいていく。
もっと近くで聴きたい……そう思ったときにはすでに、彼女に向かって一歩踏み出していた。
「だれ?」
ギターのフレーズが止まる。
部室の中の女の子が振り返り、朱色に照らされた長い髪が揺れる。
射抜くような鋭い視線に胸がなった。
「……いえ……あの……」
戸惑うばかりのワタシを見て、彼女の表情がゆるむ。
「ごめん、開けっ放しだったね。悪いけど閉めといてくれる?」
ギターの音に、苦情を言いに来たのだと思われたようだ。
「いえ、そうじゃなくて……」
「なに?」
彼女が小首をかしげる。
「ギターをもっと聴きたいって言うか……その……」
夕日を背に、彼女がフッと笑ったように見えた。
「勝手にすれば?」
ぶっきらぼうにつぶやくと、彼女は再びギターを奏で始めた。
家に帰る気になれず、いつもの公園の、いつものベンチに座っている。日はすっかり暮れてしまい、街灯の明かりが弱々しく周囲を照らしている。高台に在るこの公園は、街を一望することができるちょっとした夜景スポットだ。一番眺めのいいベンチを、勝手にワタシの指定席にしている。
もう少し上手い返し方が、あったのではないだろうか、冷静になるにつれ後悔ばかりが積もっていく。いくらなんでも、「からかわないでください」はないだろう。何故そんな言葉が口を衝いて出たのか、自分でも嫌になる。でも、ワタシにとってはあり得ないことなのだ……告白されるだなんて。しかも女性から。いや、告白という表現は正しくないのかもしれない。「抱きたい」と、ストレートに請われただけだ。
あの軽音の部室で、すっかり日が落ちて薄闇に包まれた密室で、ギターを弾き終わった彼女は突然ワタシを抱きよせた。
「あんたの視線、すごく感じる……」
そう言ってワタシの顎に指先を添えると、そのまま唇を重ねた。
初めてのキスを女の人に奪われるだなんて、思ってもみなかった。でも、不快な気持ちは湧かなかった。だから目を閉じて身をまかせた。彼女の舌先が唇を割って入り、上顎をなめたり舌に絡みつくたび、力が抜けてしまい崩れおちそうになった。
「ここでする? それともホテルがいい?」
訊かれている意味が解らず、ただただ彼女の顔を見つめるばかりだった。
「どうする?」
「な、なんの……話です……か?」
初めてのキスに、しかも濃厚すぎるキスに痺れてしまい、頭がうまく動かなかった。
「何って、あんたを抱きたいって言ってんの。どうする?」
抱きたい……抱きたいって何だろう……。思考力ゼロの頭で必死で考えた。不意にその意味をとらえた瞬間、反射的にでた言葉がこれだった。
「からかわないでください」
彼女を突き飛ばすようにして身をはなし、慌てて部室を出ようとした。
逃げるように部屋を出るワタシを、彼女が呼び止める。
「名前、教えてよ」
ドアに手をかけたままで立ち止まる。
「……モエ……です」
振り向かずに応えた。
「あたしはサキだよ。モエ、また会える?」
名前を呼ばれ、後ろ髪をひかれる気持ちになった。けれども言葉を返さず、振り切るようにして部室を後にした。
この公園に、サキさんと来れば良かっただろうか。このベンチで二人、夜景を眺めながら話ができれば素敵じゃないだろうか……いや、やっぱりあり得ない。
どうしてワタシなんかを抱こうとしたんだろう。きっと誰にでも、あんなことを言っているのではないだろうか。バンドやってる人は誰彼かまわず……なんてイメージは偏見だって解ってるけれども、どうしてもそんな風に見えてしまう。
「考えても仕方ないか……」
大きくため息をついて、眼下に広がる夜景に目をうつす。
ここへ来て夜景を眺めていると飽きないし、夜景目当てに集まるカップルを眺めていても飽きない。いや、むしろ、カップルを眺めている方が楽しくはある。
今日も隣のベンチで、カップルが夜景を眺めている。大学生くらいだろうか、二人の間に微妙な距離が在る。肩を抱きたいのか、手を握りたいのか、男の人は落ち着かない様子で距離を詰めようとしている。そんな雰囲気を察してか、女の人も落ち着かない様子だ。初々しいカップルに出会うと、いつも心の中で応援しながら観察してしまう。「男の人、今よ。手を握るなら今よ」とか、「女の人、そこで逃げずに受け入れてあげて」とか、こころの中で勝手な声援を送りながら観察してしまう。でも、今日の二人は、何だか応援する気になれない。男の人の雰囲気が好きになれない。きっとあの人、身勝手なタイプだ。他人を思いやることが、できない感じ……いや、ワタシの勝手な想像でしかないのだけれど。「女の人、心許しちゃだめよ」心のなかでそう呟きながら二人を見守る。
もっと遅い時間に来ると初々しいカップルは減り、絡み合うようにして寄り添うカップルが多くなる。肩を抱き、腕を組み、唇を重ね、まるで自分たちしか居ないかのように振る舞う人たちが増える。互いが互いに夢中なのか、ワタシが観ている事に気づいても気にする人は少ない。
中には観られていることを知りながら、行為をエスカレートさせるカップルだって居る。ワタシの視線に気づくのは大抵が女性で、ワタシから視線を外すと男性の耳元で何か囁き、その直後にワタシと男性の目が合う。この後よそよそしくその場を取り繕うカップルは稀で、大抵は見せつける様に行為をエスカレートさせていく。
観られていると知りながら、舌を絡めるのはどんな気分なのだろうか。観られていると知りながら、体をまさぐられるのはどんな気分なのだろうか。女性の心の中では、やはり羞恥心が渦巻いているのだろうか。男性の心の中では、やはり嗜虐心が首をもたげているのだろうか。解らない事だらけだ。そして困ったことに、解らないからこそ興味をひかれてしまい、胸を高鳴らせて観つづけてしまう。
その時まさに暗がりと同化しているワタシは体をいじられている女性とも同化し、見しらぬ男性に体を触られて快楽に頬を染め、衆目に痴態をさらす羞恥に身もだえしているのだ。
しかしいくら胸を高鳴らせようとも、所詮は想像でしかない。こうであろうと想像する事と、実際に体験する事の間には大きな隔たりが在る。実際に男性に体を触られるだなんて考えられないし、ましてや人前でそんな行為に及ぶなんてあり得ない。でも、そのあり得ない体験をしてみたいと思っている自分も居るし、また一方ではそんな自分を汚らわしいと感じている自分も居る。
ふと思い至った。女性が相手ならば、どうなのだろうか。サキさんのことが頭をよぎる。重ねられた唇、挿し込まれた舌先……初めての体験に戸惑ってしまったけど、決して嫌ではなかった。
隣の初々しいカップルは、いまだに微妙な距離が縮まらないままだ。もしもサキさんと二人でここに座っていたら、ワタシたちも二人のようにぎこちない時間を過ごしたのだろうか。もしかしたら彼女の強引なリードで、こんな場所にも関わらず事におよんでいるかもしれない……。
サキさんと二人でベンチに座っているところを想像しようとしたけど、巧くイメージする事ができなかった。
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