あなたに会いたい

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 別に特別掃除が好きだとか、綺麗好きだとか潔癖症だとかそういうわけじゃない。  単に毎日カーペットを粘着テープでコロコロと掃除しているだけ。ただの日課だ。そこにくっついてくるゴミだって、普段なら気に留めもしない。  だからそれに気づいたのだって、俺が神経質だとかそういうわけじゃないはずだ。  一人暮らしをしている俺の部屋に長い黒髪が毎日落ちていたら、どうしたって気になるじゃないか。  髪が落ちるようになったのがいつ頃からなのかはもう覚えてはいない。初めは服にくっついてきたものが部屋に落ちてしまっただけなのだろうと気のせいで済ましていたし、付き合っている彼女が部屋に来ることもあったから。  だけどその長い髪は彼女のものではなかったようだった。女の髪なんてみんな同じように俺には見えていたけれど、同じ女から見るとまるで違うものだとわかるらしい。  あたしの髪はこんなに長くない、髪の色も違う、艶が違う、と当時付き合っていた彼女はさんざん違いを挙げて怒った。 「他の女を連れ込んでるんでしょう!?」  そうして別れ話を切り出され、わけもわからないままあっけなく破局となった。  彼女のものだと思っていた髪の毛は、彼女と別れた後も部屋に落ち続けていた。むしろ、増えたような気もする。  粘着テープを使って掃除をしていたが、そのうちそれを使うことをしなくなった。カーペットに落ちたその髪を、俺は指で一本一本拾いあげていった。  綺麗に洗って乾かした空のガラス瓶の中に拾い集めたその髪の毛を入れていく。どうしてだろう、捨てるのが勿体なくなってきていたのだ。  言われるまで気づきはしなかったけれど、たしかにこの髪の質は俺を振った彼女の髪とはまるで質が違っていた。集めてよく見てみるとその違いがよく分かる。  きっと清楚な女だ。気分転換に染めたりすることもなく、生まれたままの黒髪を長く伸ばしているのだから。性格はきっと細やか。これだけ長い髪を艶となめらかさを保って大事にしているのだから。  髪を好き放題に染めてパサパサだった元カノの髪とは全然違う。どうして気づかなかったのだろう。  瓶の蓋を開けて嗅いでみれば、髪からは洗い立てのような香りがしてくるのだった。  髪は毎日欠かさず落ちていた。俺が大学に行っている日も、バイトに行っている日も、そして一日中家にいる時でさえも、髪は部屋に落ち続けていた。 「だいぶ、溜まったな」  瓶に集めた髪の毛は、もう結構な量になっていた。  俺は瓶数本分になった髪の毛を丁寧に取り出すと、時間をかけてそれを一つの束にまとめた。髪に良いと女性の間で評判だという櫛を買ってきてあった。ほどけないように束ねた美しい黒髪にその櫛を通すと、櫛の通りの心地よさに得も言われぬ快感を覚えた。  この髪の持ち主には、いったいいつ会えるのだろう。どれほど集めれば、大切にすれば、俺のもとに姿を見せるだろう。  眠りから覚めたとき、俺の手首や指先に髪の毛が絡みついていることも時折あった。朝目が覚めてそれを見ると愛しいような気持ちを覚える。今まさに、俺の寝ている場所に「彼女」がいたのかもしれない、とそんな気がするのだ。  絡みついた髪の毛をそっとほどいて瓶に入れる。すると、離れたくないとでもいうように、髪の毛は瓶の中で蠢いた。  俺は自分は淡泊な方だと思っていた。人付き合いに熱心な方ではないし、元カノに対してもそれほど執着はなかった。今ではもう顔もロクに思いだせないくらいだ。  けれど、今俺はこの髪の毛に執着している。この髪の持ち主に会いたいと願ってしまっている。  きっと、自分でも気づいていなかった理想を見せられたのだ。この髪を美しいと思ってから、綺麗な髪の女こそが自分の求める理想だったのだと気づいた。  毎日落ちる髪の毛を拾い集めて束を作る。その束をまた集めてまとめていく。それを繰り返し続けた。  毛束はもう、人ひとり分はあろうかというほどの量になっていた。 「足りない」  ふと、口をついて出ていた。口にすればそれは心の底からの欲望となった。自覚して強く、口にする。 「髪だけじゃ、足りない」  俺の呟きに反応したかのように、するりと毛束が腕に絡みついた。それなら何が欲しい? 髪以外の何が? ――と、問われたような気がした。 「……目、が」  この髪の持ち主の、美しい女のまっすぐな瞳が欲しい。きっとその目は俺を捕らえて離さない。俺の心を奪ってくれる強い視線をしているはずだ。  口にした瞬間、べちゃりと床に湿ったものが落ちる音がした。  振り返るとそこには、丸い目玉のほんの一部、小さな肉片がこびりつくようにして落ちていた。  ああ――と口角が上がるのを感じた。  すべて、集めよう。日々この部屋に落ち続ける肉塊を集め続ければ、きっと俺の会いたい「君」に出会える。  目の次は何を願う。貝殻のような耳か、俺に触れてくれる細い指先か。  けれど、まずは――。  俺は手を伸ばし、赤黒い汁の滴る目玉の欠片を瓶の中に詰めた。
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