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……ううん、痛い……。
なにかが顔に当たっている。そして風が吹いている。そのせいもあって寒さを感じる。空気にはまだほんのりと夏の雰囲気があるものの、匂いは完全に秋の夜だ。
身体が痛く、そして冷たい。ただ冷たいだけではない。固いなにかが……。ああ、これは石? いや、アスファルトか? 普段は踏むことしか用のないアスファルトの冷たさが頬を刺すのだ。
……いや、それはいい。ここはどこだ?
彼女は夜の河川敷のアスファルトの上に寝転がっている自分という存在に気がついた。
「何やってんだ、あたし……」
ゆっくりと身を起こし、声に出してみたものの、辺りに人影はない。地面に座り込んだ体勢のまま、視線を冷たいアスファルトの地面から空へ上げると、ビルの屋上に設置してある航空障害灯の更に上で月が笑っているが見えた。まったくもって見慣れない景色だ。彼女の住む場所は根本的にもっと牧歌的である。
「は? 意味わかんないんですけど」
彼女は独りごちてみたが、やはり辺りに人の姿は見えない。それよりもバサバサとしている何かがうるさい。さっきから顔に当たっている物体。新聞紙だ。
「……ムリシンジュウ……」
彼女は目についた文字を無意識に口に出した。目では『無理心中』という漢字を見ているのだが、脳内ではその意味をまだ理解していない。よく考えると見たこともない文字なのに読めることがおかしい。
「ムリシンジュウ……無理心中?……」
彼女は思わずうなり声を上げる。風が運んできたと思われる『無理心中』の記事を掲載している新聞紙。これには北海道新聞と書かれている。
不穏な空気しか感じられないものの、とりあえずここが『北海道』であることらしいことがわかった。しかし、謎はまだある。『北海道』ってそもそも何?
「痛っ……」
脳を働かせようとすると頭に痛みが走る。普段から脳を使用していないと知恵熱というものが出るらしいが、彼女の名誉のためにあえて言おう。これは知恵熱ではない。純粋に頭が痛いのだ。
無意識に右手で痛みのある場所を押さえる。それからその手を見た。
「え? なんで?」
彼女が驚くのも無理はない。手には血がついている。左手で同じ箇所を触ってみる。傷があれば触れたことによる痛みと右手と同じように血が付くはずである。
「は?」
低い方の『は?』が出る。痛みのあるはずの頭を触った左手には血を付いておらず、触ったことによる痛みもない。よく見ると血は右手の手のひらから出ている。そして今は止まっている。どうやら転んだ際に手を着き、擦りむいたようだ。ではこの頭痛は?
「……ムリシンジュウ……」
彼女の頭には無理心中という言葉がしっかりと根を下ろしている。なんらかの事件に巻き込まれたという根拠のない自信とちょっとした期待感が彼女の脳裏をよぎった。
「何かの薬物のせいだろうか……それとも……魔法?」
魔法? とか言い出す彼女を笑ってはいけない。俗世が『異世界転生』なるものが幅を利かせる世の中になって久しい。どのメディアを見ても『異世界』の文字を見ない日はない。これこそホモ・サピエンスが他の人類たちと一線を画すと言われる『想像する能力』であることは自明のことであるが、今回はそのことではない。『異世界』についてである。異世界とは我々の世界があってこその異なる世界。ではその逆は? そうである。彼女こそ『異』世界からの転生者。それも人格入れ替わりという異世界転生の中でもハードなオプションまで付いてきてしまったのだ。
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