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1-10話 春告鳥
【登場】ロシアンティー / ダージリン
【執筆】霧谷朱薇
秋の気配を僅かに残した、ある初冬の朝。
ロシアから魔都ロンドンへ移住して数ヵ月が経ち、新たな暮らしに漸く慣れてきた頃。
この日、お気に入りのベーカリーでクロワッサンとストロベリータルトを買い、自身が棲みついている家へと戻る道中──突如、道の端から現れた若い女性に行く手を阻まれてオレは首を傾げた。
「貴方、紅茶の化身ね?匂いで解ったわ」
紅茶の化身。
容姿、性質、能力。
いずれかに自身の名である紅茶の特徴を持って人の傍らにひっそりと息づく者。
ソレに気付くのは、今のところ妖精や魔法使いといった……所謂、彼方の住人である〝隣人〟か同族だけだろう。
ということは、つまり。
「ふふ、感涙なさい。今日から貴方はわたくしの従者よ。異論は認めないわ」
「……は?」
尊大な態度と、仁王立ちしている彼女の頭部で誇らしげに輝く王冠。
紅茶のシャンパンと呼ばれ、世界中で愛されている──紅茶の頂点に君臨する女王、ダージリンその人なのだろうと察したオレは軽い頭痛を覚え、額を押さえる。
よりにもよって、ずっと避けてきた彼女とばったり出くわすなんて。
嗚呼、今日はついていない。
✧
「それで? オレは一体何をすればいいんですか ね、陛下」
オレの後を着いて来た女王は、棲みついている家に着くや否や先程購入したストロベリータルトを横取りすると、
「わたくしの安眠を守り、そしてわたくしが寝坊しないように。春の訪れと共に起こしてちょうだい。目覚めたらまた冬の時まで、わたくしの傍に佇んでいれば良いわ」
ソースを口の端につけて、そう命じた。
風の噂で、聞いたことがある。
どういう理屈か解らないが、彼女は冬になると微睡み、春に幼子の姿で目を覚ます。
その際、一年間の記憶は丸ごと失われ、新たな女王としてまた一年君臨する。
故に、彼女はいつまでも生命力に漲り、輝いているのだと。
「悪いけど、お断り」
数奇な運命をなぞり続ける彼女に、同情しない訳ではない。
だけど、オレには何の関わりもないことで、面倒臭そうなことに巻き込まれたくない気持ちの方が強かった。
女王は一瞬、深紅の瞳を揺らして。
「あら、そう。残念だわ」と、どこか弱々しい声音で呟き、席を立った。
紅茶の女王、などと呼ばれているのだ。
謎理論でもっと食い下がってくるものかと思っていたが、案外あっさりと引かれたせいか若干バツが悪い。
「邪魔したわね」
ドアノブに手を掛ける彼女の背を一瞥、そのまま興味を無くして視線を逸らしてしまえば良かったのに。
数秒、ぴたりと静止した彼女の影が、スローモーションで崩れていくのを見た。
「……やっぱりね。そうじゃないかと思っていたの」
考えるより先に体が動いていたらしく、気付くとオレは彼女を抱き起していた。
気怠げにオレを見上げ、彼女は続ける。
「貴方は……わたくしと同じ。二人でいる寂しさをよく知っている。……だから、他人に興味無いフリして、一人きりの孤独を選ぶのでしょう……そのくせ、貴方……」
彼女の目蓋が徐々に閉まっていく。睡魔に抗うように、彼女は言葉を絞り出した。
「根っこはどうしようもなく優しいのよ……でなければ、見ず知らずのわたくしを、住処まで招くようなこと……しなかったはずでしょう……」
「……さぁね」
「ふふ、……強情な子。……眠る前に、名前……聞いてもいいかしら……」
「名前? ……ないよ」
「あら……それじゃあ、出身はどこ……?」
「……、ロシア。ジャムを舐めながら飲む紅茶ってだけで、オレは名前がつくほどのもんじゃない」
ややあって、彼女は呟いた。
「そう……なら、貴方の名前は今日からロシアンティーね……」
彼女はオレの頬を一撫ですると、静かに目蓋を下ろした。
✧
頬杖をついて、正面の席で微睡んでいる幼い少女を眺める。
こうして見ると、精巧なドールが椅子に座っているように見えるけれど、彼女の薄い胸はちゃんと上下している。
「……ん……」
ぴくりと、目蓋が動いた。
そろそろかな。
オレは口許に笑みを浮かべて、その瞬間を待った。
やがて、ゆっくりと目蓋が開かれ、深紅の瞳が現れる。
「…………」
目覚めたばかりで頭が回っていないのだろう。
オレと目が合うと、彼女は「ここは?」と言いたげに緩く首を傾けた。
「黄昏の庭園。紅茶の化身に与えられた、安寧の箱庭。そしてオレは──」
「……、ろしあんてぃーね。においでわかったわ」
舌っ足らずな話し方とその言葉に思わず吹き出して。
囁くように、告げた。
「おはよう。親愛なる、我らが女王陛下」
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