夜明け

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夜の海は静かに(さざなみ)を立てていた。 (かす)かな波音は、常世(とこよ)からの響きにも聞こえる。 人を不埒に呼び招く音だなと、男は目を細めて煙草を吸った。遠くの、ここではないどこかで鳴る音を聞くような顔つきが一瞬夜に浮かび上がる。 (くら)く深い夜の底で、じっとりとした灯火(ともしび)が小さく光った。 寺山修司は身捨(みすつ)るほどの祖国はありやと詠んだ。では自分ならどうだろう、と考えて男はぽっかりと煙を吐き出す。 闇に慣れた目は一瞬広がった白を捉えたけれど、すぐに見失った。 成る程、残念ながら自分を賭してまでのものは、男も持っていなさそうだった。 身軽でいられるのは彼の特権だった。なぜなら彼は生まれた時から何も持ってはいなかった。空の掌を握って生まれた赤ん坊は、空手のまま大人になり、青年になった。 身軽で結構、と彼は煙を飲み込む。伽藍堂の体内を紫煙で満たす。もくもくと膨らむ仮初(かりそめ)の中身は、唇の端から洩れて夜のしじまを宛てなく漂う。 「眠い」 こんな寂しい海に来たかったのは自分ではない。攫うように連れてこられた。一体いつ帰れるのだろうか。 凍てる海風に体を震わせた男は黒い海の上に身を乗り出した。 「さっみぃ」 「落ちないで下さいよ」 桟橋から夜の海を覗き込んだ男の衿元を、誰かがぐっと引く。ウールコートの首が詰まって男の喉から潰された蛙のような声が溢れる。一瞬呼吸が詰まって乱れた息に咳き込むと、慌ててその手は離れた。 「大丈夫ですか、先輩」 「…俺の首絞めるとはいい度胸だな」 「すみません、ごめんなさい。殴るのはやめて下さい」 男より幾分年下の男は、本当に怯えた様子で手のひらを突き出した。体は大きいのに気の小さい奴だ。つい癖で拳を振り上げていた男はその手で彼の額を小突いた。 いてっ、と頭を抱えた年若い男が長い体を折り曲げて蹲る。 「大袈裟なやつだな」 「…いやいや。先輩の一撃は重いんですって」 「殴ってすらねぇし」 「まともに殴られたら骨折れますよ」 「小魚でも食って骨強くしとけ」 くだらない言い合いの挙句に後輩の男は唇を尖らせた。これは彼がよくする仕草で、甘えている時の印だった。 小突かれて懐くとはけったいな男だ。なんだか忌々しくなった男は口に含んだ煙をたっぷりと後輩に吹きつけた。男を見上げていた能天気な顔が顰んで噎せ込む。
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