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次のバスは明後日の早朝であることを教えてくれたその人は、先ほどからずっと空を見上げていて、私はこれ幸いと、頭のてっぺんからつま先までまじまじと観察した。近くに神社でもあるのだろうか。上下真っ白な袴姿は神主のそれを思わせた。襟足の辺りで緩く縛った赤茶色の艶やかな髪の毛は肩甲骨辺りまである。
つい先刻に見せた一瞬の少年のような微笑みは幻だったのではないかと思えるほど、空を見上げる儚げな横顔は整っていてすごく綺麗だ。ゆれる木陰がイタズラに彼の顔に木漏れ日を落とす。きらきらと輝いて見えるのはその木漏れ日のせいか、それとも彼自身から自然と溢れるものだろうか。
「――貴女はなぜ、ここへ?」
「え……?」
「なぜここへ来たのです?」
透き通る綺麗な声に咎められるように聞こえるのは、私自身に後ろめたさがあるからだろうか。
「……それは」
「ここがどういった場所か知ってて訪れたのですか?」
「え? いえ、気持ち悪くて途中下車したんです。もっと先へ行く予定で」
もっと先で消えるつもりなんて口にしなければ誰にも分からないし、後ろめたく思う必要などどこにもないというのに。
「先?」
空を見上げたまま、さして興味もなさそうな彼には何も関係ないというのに。
「――は、い……」
咎められているようで諭されているような不思議な感覚が、誤魔化しや偽りを口から出すのを憚らせた。これが神事を生業とする人のもつ力なのだろうか。今「なぜ」と聞かれれば嘘偽り無く答えなければならない。そんな妙な切迫感にばくばくと心臓が暴れ出す。
「あ、あのっ、さっきはサンショウ、ありがとうございました。いい香りですごく気分が良くなりました」
一刻も早く、ここからというかこの人から離れたくて、じゃあ私はこれでと頭を浅く垂れて踵を返す。
ふいに頬を濡らしたのは雫だった。
空からいくつもの雫が降る。
「――……?」
空はどこまでも高く青く透き通っているのに。
心当たりがあるとすれば。
「キツネの嫁入り――……?」
「すぐに止むのでこちらへ。風邪を引きますよ」
そう言って私の手首を掴むその手は柔らかくて温かい、そう思った次の瞬間には彼の胸元に引き寄せられていた。
停留所の小さな屋根は朽ち木となり、屋根としての機能を果たしていない。
辛うじて残る乾いた地面の上に肩を寄せ合い、垂れる雫を息を呑んで見つめた。濡れた髪が首へとへばりつく不快感と、心地よいぬくもりの間を行ったり来たりしながら、晴れ雨が止むのを待つ。
触れあう肩から体内に流入するそれに心が揺れる。人の体温がこんなにも温かいということを、このタイミングで突きつけられるとは。自らの手で自分の人生の幕を閉じようと、人気の無い山奥を目指してきたというのに、覚悟を決めた途端に後ろ髪を引っ張る感情が、芽生えたくて暗い地の底でくすぶっている。
――さみしい。
そうだ、私は寂しいのだ。
物理的な孤独が、心理的な孤独が、誰からも愛されていないという事実が、その事実を受け止めきれないという現実が、さみしい。
「……はっ」
堪えきれず久しぶりに流した涙は、これまた驚くくらいに温かかくて、引くくらい止めどなく流れ出た。
朽ち木の屋根の下、隣の彼は、晴れ雨が止んでも私の涙が止まるまで、そのままそばに居てくれた。
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