ともだち倶楽部

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日差しが強さを増してきた五月のはじめ、渡良平はまるで鍾乳洞のような、周囲から一つ気温の下がった、呼吸のしやすい場所を発見した。   ――話は昨日に遡る。 窓際の日の当たらない席で今日もひとり、渡良平はひっそりと息をしている。 窓の外から柔らかな日差しが教室に差し込むが、壁が邪魔して彼には届かない。 無縁の世界だ。 友達。 笑い声。 楽しそうな空気。 すべてから逃れるようにイヤフォンを耳に埋め込み、視線を落とす。 落ち着いて、瞼の裏側でイメージする。 深海の魚たち。 光の届かない深い海の底。 紺碧の狭間を揺れる瑠璃色の世界。 どこまでも孤独で、果てしなく自由。 教室の隅っこで、同じ景色を脳内に思い浮かべるのが彼の儀式となっていた。 その静寂を、始業のベルが打ち破る。  朝のHRが始まり、担任が小さな冊子を全員に配る。 何だろう、と見てみると〝旅のしおり〟。 「今配っているのは修学旅行についてのしおりだ。各自に保管を任せるので絶対になくさないように。いいか、絶対だぞ! 内容の確認は今日の道徳の時間にする。今日はしおりの内容の確認だけする予定だが、明後日の道徳の時間は班決めをする予定でいるから、みんな休み時間等を使ってある程度話し合っておくように。道徳の時間で決められなかったら居残りになるからな! 頼んだぞ!」 「えー!」 「どうする?」 「居残りかよー!」 あちこちからブーイングが飛ぶ。 最悪だ。 渡良平にとってその知らせは、赤紙の徴兵通知のようなものだった。 しかし本当の意味で友達がいないことに打ちのめされたのは、その後だった。 彼はクラスに友達がいなかったが、それでもどこか平気だと高をくくっているところがあった。 彼がそうしていられたのは、クラス内に自分の他にも、友達がおらず休み時間を一人で過ごしている生徒がいたからだった。 男子に一人、女子に一人。 名前は山下光輝と七瀬梨花といった。 だからたとえ班決めが行われるとしても、入れてもらえるところがなくてあぶれることになったとしても、そうなるのは自分だけではないと思えば心強かった。 しかし彼の見当は大いに外れた。 HRでの発表があってから、教室は班分けの話題で持ちきりだった。 一時間目が終わった後の休憩時間、すでに男子と女子に別れていくつかのグループが出来上がっている。 すぐに決まったのは顔が整って不憫になるほど細い女子が集まったグループと、サッカー部でまとまったグループだ。いわゆるスクールカースト上位のグループで、おそらくこの二つの男女のグループはくっついて一つのグループになるだろう。 他にもいつも休み時間や移動時間を共に過ごしている生徒同士で集まり、話し合いが行われている。 じゃんけんをしたり、譲り合ったり、人数でもめているところが多そうだ。 そんなやりとりを見ていると、一匹狼の七瀬梨花の周りに二人の女子が群がっているのが目に付いた。 七瀬梨花に話しかけているのは、普段目立ちはしないけれど、そこそこ可愛くて頭の良い女子と陸上部で全国大会に出場している女子だった。 その面々が会話をしているところを見たことがなかったので、渡良平は驚いた。 何より釘付けになったのが、七瀬梨花が朗らかに微笑んで談笑していることだった。 普段のツンとした表情からは想像できない、毒気の抜けた優しい笑顔を見せていた。 (七瀬さん、あんなふうに笑うんだ) そちらに気を取られていたら、いつの間にかサッカー部の横で山下光輝も男子に囲まれていた。山下の周りに集まっているのは、いつも眠そうな顔をしているけれど女子から可愛いともてはやされている男子と、その男子の世話係をしている背の高いしっかり者の男子だった。 そしてあろうことかその山下含む男子三人は側にいた七瀬含む女子三人に声をかけた。 はじけたように笑顔が広がり、輪になって話し始める。 化学反応を引き起こした彼、彼女らの空間は、導火線から火が割薬に到達して花火が咲いたかのようにキラキラしていた。 その直視できない青春の輝きで、渡良平の心は粉々に砕け散った。 (どうしよう) 離れ小島になった席で、焦燥感だけが彼の側にいた。 勝手に仲間だと思っていたけれど、あの人たちは自分とは違う人間だったのだと、実感したと同時に気がついたのは自分も友達がほしかったのだという事実だった。 先ほど人に囲まれている二人を見て、心から羨ましいと思った。 どうして自分の周りには誰もいないのだろう。 声をかけることができたなら、何かが変わるだろうか。 しかし今更、友達が欲しいと思ったところで、話しかけるなんてできっこない。 渡良平には、友達作りに踏み込めない理由があった。 良平は人前に出ると声が出せない。 大勢に限らず、一対一で話す場面であっても上手く声が出てこない。 喋ろうと必死になればなるほど、声は喉を下りて隠れてしまう。 そんな状態になってしまったのは、小学生のころ言われたちょっとした一言のせいだった。 「りょーへい君の声って変!」 「風邪引いてるの?」 好きな女の子に言われて顔が真っ赤になった。 話せたのが嬉しかったからではもちろんない。 自分の声が恥ずかしかった。 ハスキーボイス、と言えば聞こえはいいけれど、自分でも耳障りだなと思うようなガサガサとした声をしていた。 いつからそうだったのか分からないけれど、気づいたときにはもうこの声だった。 その好きだった女の子以外でも、声を揶揄われることは多かった。 「声変わり失敗」だとか「万年インフル」だとか、酷いときはばい菌扱いされたこともあった。 良平はそのたび、笑ってごまかし、耐えていた。 だって傷ついた顔をしたら笑えなくなってしまう。 傷ついたことを悟られてはいけない。 中学にあがってしばらく立つまで、良平はそのやり方でどうにかやり過ごしていたけれど、とうとう中学も二年になるとそのやり方に疲れてしまった。一度付けられた傷は我慢したからといって消えずに蓄積されていくのだと小学生の頃の渡良平は知らなかったのだ。 良平はもう、痛いのに痛くないフリをして通り過ぎることができないところまで傷ついてきてしまったのだ。 今度声のことで傷つけられることがあったなら、きっとその場でうずくまって泣いてしまう。 だから距離を取ることにした。 人と関わらない事を選んだ。 そうする以外、自分を守る方法がわからなかった。 「そんな僕が、どうやって……」 気づけば授業が終わり、帰り支度を済ませ、廊下を歩いているところだった。 授業中も上の空で、何の策も思い浮かばないまま今日一日が終わってしまった。 バン! 不意に前を走ってきたサッカー部の男子に通りすがりにぶつかられ、よろける。 「ごめん!」 彼は叫んで走り去ってしまう。 「痛いな、もう……」 どうしてこんな、声なんだろう。 自分の声が鼓膜で響いてつくづく嫌気が差した。 ――と、もたれかかっていた扉が開き、扉を開けた人物にもたれかかる形で受け止められる。 「おっと、いまぶつかる音がしたけど、大丈夫? 」 顔を上げるとみたことのない、丸い眼鏡をかけた細身で長身の男が心配そうにこちらをのぞき込んでいた。 「だ…大丈夫、です」 ぼそぼそと小さな声で呟くと、「そっか、なら良かった」と優しく微笑まれる。 「それできみ、ここに用があったんだよね? 入って入って」 「え? いや、僕は……」 そういえばここ、一体なんの教室なんだ。 疑問に思い顔を上げると【ともだち倶楽部】と書かれた表札がぶら下がっていた。 ……ともだち倶楽部? 聞いたことない、そんな倶楽部。 困惑していると腕を引かれ、中に招き入れられる。 「え、なん……、」 彼が言葉を失ったのは、そこにいたのがほぼ全員、クラスメイトたちだったからだった。 その場にいた全員の顔がこちらに向けられる。 しかしそれは好奇に晒された嫌な視線じゃなくて、「なんだお前、やっときたのか」みたいな、どこか歓迎の意を含んだ視線だった。 脳の処理が追いつかず良平がフリーズしていると、例の男性が「おーい」と良平の顔の前で手を振り声をかける。 良平が目をしばたかせて反応すると、「僕は鈴木湊っていいます。ここでスクールカウンセラーとして働いている非常勤講師なんだ。よろしくね」手を差し出され、軽く握手を交わす。 「あの、ともだち倶楽部って……、どんな……?」 小さな声で問いかけると、鈴木先生は答えた。 「うーん、ここに訪れている同じクラスの子がいたら色々と協力出来るんだ。要は友達ごっこだね。友達のフリをしてくれるクラスメイトを探す場所さ。でも不思議なものでね、友達のフリをしていたらいつの間にか本当に友達になっていたというケースもあるし、必要以上に関わることなく終わるケースもある。それにここにくる子がみんな友達がいないのかといったら、そうとは限らないんだ。クラスに友達がいないからといって、他にも友達がいない分わけじゃないんだよ。部活だったり、趣味だったり、何かしらで人との繋がりを持っている子はいる。クラスで友達ができなくても構わない。でも友達がいないといろいろと不便だから、便宜上、共存しあえる仲間が欲しい。そんな思いを抱えた子たちがここに集まる」 友達、のフリ。 あんなに親しげだったクラスメイトの半数がここにいるということは……。 良平の頭は混乱する。 「初めてきた子には、このアンケート用紙を書いてもらうことになっていて、書いてもらってもいいかい?」 紙とペンを手渡され、戸惑いながらも頷き、良平は側にあった机に紙を置き、椅子を引いて書き始める。 アンケートにはいくつか質問が書かれていて、トラウマや友達を作るのが苦手な理由などを記入する欄があった。 良平は正直に、しかし詳細な出来事は伏せて声のことを書いた。 「声、出ないの? 渡。緊張するせいなのかな。……なんかそれ、俺も分かるな。わけわかんなくなって、上手く話せないことあるよな」 いつからそこにいたのか、同じクラスの吉田優貴が机に腕をのせてアンケートをのぞき込んでいた。 (え、先生、個人情報厳守してよ!)と批判じみた視線を鈴木先生に送ろうとしたが、先生は別の生徒に囲まれていてそれどころではなかった。 どう対応したらいいのか分からずに固まっていると、隣の椅子を引いて吉田が腰を下ろす。 「でも安心して。俺、こんなだから」 そう言って吉田は制服の袖をまくって腕を見せた。 「酷いでしょ、火傷の跡。一生消えない、キモい皮膚」 渡りの左腕の内側は、一面赤紫色に染まっていた。 「この痣人に見られたくなくて、一年中長袖の制服着てるの、内緒な。……俺ね、渡の声思い出せないんだけど、渡より俺のがよっぽど変だから、どんな声でも大丈夫だよ」 話せない、と書いた下に、声が嫌い、と書いたのを、見られてしまったのだと気がついて耳が熱くなるのを感じた。 「良かったら渡、俺と組まない? ともだちになろうよ」  揶揄っていないことが見て分かるほどに真摯な目で見つめられる。 「人と話すのが苦手なら、べつに話さなくてもいいんじゃん? 友達って、話すだけが友達じゃないよ。話す以外でも一緒にできること、きっとある」 頷いたのは、吉田の提案に乗りたいと思ったからで、首をかしげたのはでも話す以外で一緒にできることって何があるだろう、と思ったからだった。 「ほら、渡って休み時間よく本読んでるじゃん。行こうよ、図書室。休み時間でも、放課後でも」 渡は頷いた。力強く何度も。 あまりに嬉しそうに頷くものだから、おかしくて吉田もケラケラと明るく笑った。 「約束な」 次の日、渡の側にはずっと吉田がいた。 休み時間になるたび吉田は本を持って渡の前の席に座った。 そしてただずっと、時間がくるまで黙って本を読んでいた。 「放課後は図書室行こうな」 そう言い残して、吉田は自分の席に戻っていった。 渡は言い知れない無敵感に覆われていた。 ひとりじゃない、ってすごいと、今なら何でも出来るような気がした。 そしてふと、昨日の後悔を思い出す。 昨日の夜、布団に入りながら、渡は吉田が見せてくれた腕とかけられた言葉が頭から離れなかった。 あのとき、キモくないよ、と、伝えてあげられなかった。 そのことをとても後悔していた。 自分の傷を相手に見せる怖さを知っているから、あのときの自分の態度が気がかりだった。 吉田は自分から先回りして牽制するように「キモい皮膚」と言った。 そんな心ない台詞を誰かに言われた経験があるのだろうかと想像すれば胸が痛かった。 ずっと人と話すのが怖かったけれど、渡の胸には〝言葉にして伝えたい〟という欲求が芽生えていた。 こんなにも放課後が待ち遠しいのは初めてだった。 吉田と過ごす中で、伝えたい。 自分の口で、自分の言葉で。 この声で。 その日の放課後、事件は起こった。 良平は約束通り吉田と図書室を訪れていた。 ひとりで入るのが何だか気が引けて入ったことがなかったので、良平は図書室二来られただけでも嬉しかった。 吉田は良平が返事をしなくてもめげずに話しかけ続けてくれる。 嫌にならないのだろうかと心配になるけれど、嫌な顔一つせず、無理して話さなくていいよと思ってくれているのが雰囲気のやわらかさから伝わってくる。 「見てよこれ、渡。渡の好きな作家じゃない? 北海道に記念館があるんだって。今度の修学旅行、班別行動のとき……」 普通に話しているだけだった。 なにもおかしな行動はなかった。 話している途中で急に、吉田は意識を失った。 バタン! と吉田の体が勢いよく床に叩きつけられる音がする。 顔を打ったせいで鼻血が出ている。 鼻血が出たときはええと、確か鼻の付け根を……。 でも意識を失っているのに、息ができなくなる? 「誰か!!」 気づくと叫んでいた。 図書室にいた生徒と司書の先生が駆けつける。 「先生!!吉田が!!吉田君が!!」 涙で歪む視界の中で、先生の腕にすがって助けてくれと訴えた。 「私救急車呼ぶので、君、保健の先生と担任呼んできて!」 言われて良平は走った。 肺に穴が空くのではないかと思うほど全速力で職員室に向かった。 途中保健室を開けて保健の先生に生徒が倒れたので図書室へ行って欲しいと伝え、いつもなら入るのが怖くて尻込みしてしまう職員室を勢いよく開け、担任の名前を大声で呼んだ。 担架に乗せられ吉田が救急車に担ぎ込まれる間、側で泣きながらなにか叫んだが、自分でも何を叫んだのか、必死すぎて覚えていなかった。 数時間後、自宅で待機していると、担任から電話がかかってきて、吉田は起立性低血圧で倒れただけだと伝えられた。立ちくらみなので命に別状はないと聞いて、安心のあまり腰が抜けた。 それから少しして吉田の家から電話がかかってきた。 電話の声の主は吉田の母親で、吉田が良平に会いたがっているから、会いに来てくれないかとのことだった。迎えに来てくれるというので、住所を伝えて家で待った。 数十分後、吉田の母親が本当に家にやってきて、母に礼を伝え、いいと言っているのに菓子折を渡していた。 「うちの子が少し話しがしたいみたいで、済んだらすぐにおうちに送り届けますので」と吉田の母親は礼儀正しくお辞儀をした。 吉田の部屋に通され、扉から顔をのぞかせると、吉田がベッドに横たわっていた。 「おう、渡、ごめんな。急に倒れられてびっくりしたよな。俺もびっくりした」 笑って手招きされ、良平は部屋に足を踏み入れる。 ベッドの脇に腰を下ろし、少しの静寂が二人を包む。 いつもならその静寂を破るのは吉田だが、今日それを破ったのは良平だった。 「も、もう大丈夫なの? 病院、いなくていいの?」 膝の上で握った拳が震えている。 吉田は良平の手に手を重ね「うん、ただの立ちくらみだって。入院するほどじゃないみたい」 また静寂が。  良平は胸が詰まり、口をぎゅっと横一文字に結んでいる。 「聞こえてたよ」 え、と良平が顔を上げる。 「担架で運ばれてるとき、もうろうとする意識の中で、良平が俺の名前読んでくれてるの、必死で助けようとしてくれてたの、ちゃんと聞こえてた」 良平の目に涙が浮かぶ。 「ありがとう」 吉田は微笑んでそう言った。 「良平がいてくれて良かったよ。ありがとう、ってそれがどうしても伝えたかったんだ」 吉田は良平に向けていた顔を仰向けに戻しかけて、「あ、あと」と思い出したようになにか言おうとしたけれど、良平が抱きついたので「おわっ!」という声で消えた。 「なんだよもう、俺病人だぞ」 茶化す吉田に、良平は顔を毛布から上げて伝える。 「キモくないよ。吉田の腕、なんにもキモくない。ハリーポッターの額の傷みたいでかっこいい。僕もずっと、伝えたかった」 一瞬きょとん、と目を丸くして吉田は声を上げて笑う。 「なんだよそれ、ハリーポッターか。初めて言われたよ」 ひとしきり笑った後、「でもそうか、そう言われると悪くないかもな」と目尻の涙を拭った。 「それを言うなら良平もな。良平の声も変じゃない。何も変じゃない。ボン・ジョビみたいでかっこいい」 良平もきょとんとして、笑う。 「絶対思ってないでしょう」 「思ってるって」 すっかり日も落ちて星が瞬く空の下、四角い小さな部屋の中で、ころころとした笑い声がこだました。 (終わり)
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