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「1分オーバーです」 部屋に入った途端、目の前に玉城さんと視線がぶつかる。
 ボクは肩で荒い息をしながら、玉城さんを見つめた。 
「い、いっぷんオーバー……?」 
「はい」 
玉城さんはこれ以上ないぐらい冷静に、そして静かに言い放つ。 
「それに時間厳守でお願いしますって何度も言いましたよね?」 
玉城さんは乱暴にボクに言葉を投げる。 そしてドサッと勢いよくベッドに座った。 だけど彼女は幽霊だから音はしない。 見慣れたはずだった異様な雰囲気に、今になって胸がざわめく。 
ボ、ボクが遅れたのは道に迷ったからでっ!
 言い訳したいけど息が上がって声が出せない。 そんなボクのことを、玉城さんはずっと冷えた眼で見据えていた。 「言い訳は聞きません」 ツンとそっぽを向き、まるで小さな子供のようにボクの言葉を受け入れようとしてくれない。 「でも望月くんが時間を破るのも、最初から分かっていたこと。だってあなたが生きてる世界よりも、私の理想の世界の方がずっと住みやすいもの」 
玉城さんは片目だけ、チラッとボクを見る。 
そしてさっきまで氷のようだった瞳が、だんだん溶けるみたいに温度を上げる。 
「え……?どういうこと?」 
やっと喋れるようになってきた。 そしたら玉城さんは、体ごとボクの方に向いた。 
「幸せだったでしょう?あの世界。あれは私の理想。こんな世界だったら、私も幸せだったかなぁっていう素敵な理想。あなたにあげたあの『飴』は、わたしの理想を詰め込んだものだったの」 
いきなり明かされた事実に驚く。 「理想って……」 「まだ気づかないの?」 玉城さんはボクを見て呆れたように眉をあげた。 「ここは、現実じゃない。わたしとあなただけの理想郷。本当の葵は今、ベッドの中でぐっすりだよ」 玉城さんの口から出てくる衝撃的な言葉に、思わず口を覆う。 ……つ、つまり、あの飴は玉城さんの理想を飴にしたってこと?
 そしてボクはその飴を飲んでただの理想的な夢……を見てたってこと? そういえば飴を飲む時に、玉城さんは『催眠状態になる』って言っていた気がするような。 ゾワっ……と、体を撫でていくような恐怖感に襲われる。 玉城さんはニコリと微笑んでいる。 目が笑っていない。
 「この世界では都合のいいことしか起きないの。葵みたいな見た目の女子でも誰も何も冷やかさない。これ、普通の現実世界じゃあり得ないことだからね?」 彼女は髪を手ですきながら、チラッとボクを見た。 ボクは何も言えずに固まっているだけ。 外の景色が夕暮れで赤紫色に染まっているのが視界に入る。
玉城さんの真っ白な姿は、窓の外が見えるこの角度からだと、外の紫色に染まったのかと思うほど黒く見える。 「葵。あなたは約束を破った。守らなかった。だから、私は葵をに戻してあげることはできない」 部屋が異常なほど静まり返った。 夕陽が部屋に差し込んで、玉城さんの体を妖しく照らす。
 「——え」 今、なんて言った……? 頭の中が真っ白になって、玉城さんのことしか視界に入らなくなる。 「も、戻れないって……」 「葵が悪いんでしょ。時間を守らずに遊んでたから」 違う。そうじゃない。 「ボ、ボクは、ちゃんと家に帰ろうとしてた。だけど、奈々子が……奈々子が可哀想で……っ」 あの時、友達が漫画を取りに帰った時、奈々子を振り切って帰ることはできた。 だけどそれをしなかったのは、奈々子の側にいてあげたかったから。 「違う。だって葵、時野さんに家に誘われた時、時野さんの家に行きたいからついて行ったんでしょ?嘘だとは言わせないよ」 有無を言わせない玉城さんの口調。 ボクは気圧されそうになる。 確かにその気持ちも少しはあったかもしれないけど……。 「で、でも、ボクが約束の時間破ったのだって、わざとじゃないし!」 「わざとかわざとじゃないかはどうでもいい。時間通りに戻ったか戻らなかったか、必要なのはその事実だけ」 玉城さんは、どんどん感情的になるボクをかわしてように冷静に返してくる。 ……会話が全く決着しない。 「埒があかない」 ボクが思ったことと同じことを、玉城さんは呟く。 そして立ち上がる。 「葵はこれから、女子として生きてもらうから」 抑揚のない彼女の声がボクの部屋に響き渡った。 「……えっ、ちょっと待ってよ、」 これから女子として生きるって……。 さっきまでの、奈々子たちと過ごした三日間が思い出される。 だけど……あれは玉城さんの理想の世界だった。 これからボクは、現実世界で女子の望月葵として生きなければならないの? それって……。 「いやだ」 怖くなって、ぽろっと呟いていた。 玉城さんは何も言わない。 「……いやだ」 もう一度、呟く。声が震えて、最後の方は音にならない。 「嫌だって……最初に、葵が言い出したことじゃん。覚えてないの?自分で言ったこと」 ボク、女子になりたい! 三日前のボクの部屋で、玉城さんが現れたその時の、自分の声が脳に反響する。 「本望でしょ?それともやっぱり今になって、男子の方が良かった、女子になるのは恥ずかしいとか言い出すの?」 玉城さんの声が耳から遠ざかっていく。 首が俯いて、床を見つめて震える。 心臓がバクバク激しい音を立てて落ち着かなかった。 「だ……だって、見た目そのままって……そんなの変だよ。ランドセルだって、洋服だって、元に戻してよ……」 どうしようもない嘆きが自分の口から溢れた時だった。 「——やっぱり葵も、そう言うじゃない!!」 玉城さんの絶叫が部屋中に響き渡った。 「え、えっ?」 顔を上げたら、体をわななかせて真っ白い顔のまま眉根を思いっきり寄せる玉城さんの姿が目に入った。 「男子のまんまの見た目じゃ、変なんでしょ!?自分のこと嫌だって思うんでしょ!?やっぱり葵もそっち側!わたしの気持ちなんて分かってくれない!」 玉城さんが激昂していることは分かった。 だけどなんで急に怒っているのかが分からない。 「きゅ、急に何?」 ボクが声を発すると、彼女は睨みつけてきた。 その視線には苛立ちと憎しみが込もっている。 「どうせ言っても分からない」 そう言ってまた玉城さんは勝手に話を終わらせようとする。 今にもこのまま姿を消してしまいそうで怖かった。 「わ、分からないって……」 心の中で我慢していた愚痴が溢れ出そうになる。 必死に押さえつけるけど、ダメだった。 「……玉城さんがいつも何も言ってくれないからじゃん!そんなんじゃ分かりたくても分からないよ!」 奈々子が自分の気持ちを人に言わない理由を理解したつもりだった。 玉城さんにも言えない理由があるのも勘付いていた。 だけどあんなに、一方的に言われるだけじゃ我慢できなかった。 彼女は歯を食いしばったままボクを睨み続けている。 「——とにかく。次、葵が目が覚めたら現実世界で女子になっているはず。もちろん見た目はそのまま、みんなの記憶も変わらずにね」 氷で冷やされたみたいに玉城さんの怒気がおさまり、まとう空気も急に静まり返った。 「えっ、まって」 「味わうといいよ。私がどんな気持ちだったか」 最後の太陽の一筋が差すと同時に、玉城さんの燃えるような瞳がボクを貫いた。 彼女の姿が見えなくなったと思ったらボクの意識も一緒に薄れていって、次に目が覚めたらベッドの上だった。 もちろん洋服は、花柄のパジャマで。
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