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6
——ど、どうしよう。
飛び起きた瞬間から汗がダラダラだった。
自分の花柄のパジャマを見下ろしても事態は何も変わらない。
だけどボクはこれが何かの悪い夢で、自分の身には何も変化が起きていないのではないかと感じてしまう。
だって……本当に、ボクの身の回りだけが変わっていてボク自身は何も変わっていないのだから。
「葵、早く降りてきてー!」
お母さんの声がボクを急かす。
服を着替えてから行かないと、だよね。
長い長い夢を見ていたからか頭は今のところ冷静で、何が起こったのか状況もちゃんと把握できている。
タンスの中を確認して、やっぱりと肩を落とす。
カラフルな色の洋服たち。
スカート、ワンピース、肩のフリルや英語の綴りで書かれた可愛い言葉たちが、今は嫌気しか誘わない。
一番下に隠れるように置かれていたズボンを引っ張り出し、比較的目立たない色のTシャツを着る。
鏡の前に立って……これなら『マシ』だよね、と自分で錯覚させる。
まだ心臓がドクドクしていて、どこか現実味のない感覚。
「葵!」
しびれを切らしたお母さんがボクの部屋を開けた!
ぎくっと肩を跳ね上げたボクとお母さんの目が合った。
「……な、なに?」
ボクは動揺を隠すように声を発する。
お母さんは今のボクの姿を確かに、見た。
「ご飯、冷めちゃう。結も起こしてきて、お母さんゴミ捨て行かなきゃいけないの」
すぐに部屋を出ていき、階段を下がってゴミ袋を掴む音が聞こえた。
……何も言われなかった。
ボクは唖然と部屋を出て、そのまま結を起こしにいく。
「んぁ、朝?まだ眠いよー」
結は瞼をこすりながらベッドから起きてきて、そのまま絵屋を出ていく。
「あれ、どうしたの、すっごい疲れた顔してる」
結の目がボクを捉えて、瞬きする。
でもすぐに洗面台に行って水を流す音が聞こえだす。
「あ、れ……」
なんか思ってた反応と違うような。
もっと何か言われると思ってけど、何にも言われない。
もしかしてそこまで変じゃない……?
そうだよ、洋服はズボンだし上の服も普通の服だし、冷やかされる要素が何もない。
もっと堂々としてても大丈夫……?
そんな気がしてきて、ボクは朝ごはんをいつもよりは少なめだけど食べ切って、赤いランドセルを握りしめて登下校を歩く。
だけどその足取りは重くて、不安感は全く拭えなかった。
「うわ、アオそのランドセルどうした!」
アオ、って呼ばれること自体久しぶりな気がして、すぐに反応できなかった。
「え」
一拍置いて振り返ると、クラスの男子たちが数人。ボクを見て笑っていた。
「いつも赤じゃなかったよな?」
「変えたの?」
「えー、なんで赤?」
興味津々な声が耳に入ってくる。
別に嫌味を言われているわけじゃない。
でも耳に入る全ての言葉が攻撃されている気がして、口をつぐむことしかできない。
「アオ?」
一人に顔を覗き込まれた。
「……ゆ、ゆいの。ボクが選んだわけじゃない!」
口から出た言葉はたどたどしくて、ちゃんと伝わっているか分からない。
だけどボクはこの場所にいるのに息がつまって、急いで去る。
全然、肯定されている気はしなかった。
教室に着いても落ち着かなくて、座ったまま首を俯けて朝の会が始まる時間を待つ。
ランドセルロッカーの方からクラスの子のざわざわした声が聞こえる。
教室に後ろに置かれているランドセルロッカーは、男子と女子で分かれている。
みんな黒や青のランドセルな中、ボクのランドセルだけ赤だ。
目立つし、みんな気になる。
きっとその話をしているんだろうと思うと、怖くて顔を上げられない。
早く一日が終わってほしいと思うのが辛かった。
「アオ?」
声をかけられたと思ったら、サトくんだった。
久しぶりに彼の声を聞いた。
振り返って、彼の瞳と目が合う。
サトくんはボクを見て目を丸くしていて、何か言いたげな口もと。
「あっ……」
何か言われるのが怖かった。
サトくんに幻滅されたら終わりだった。
ボクは立ち上がって、後ずさる。
サトくんが口を開くけど、そこに被さるように大きなバカにする声が響く。
「アオ!お前、なんでランドセル赤いんだよ!」
「急にファンシーになっちゃったのー?」
いつもいじめてくる男子二人。
サトくんの前に立って、ボクの前に壁のように立ちふさがる。
「あ、あれは結ので……、」
言い訳が口を走るけど、小さすぎてきっと聞こえていない。
それにやっぱりこの二人が怖くて、それ以上何も言えない。
「なんか言えよ」
「どうして急に女の色のランドセル使ってるんだよー」
きっとみんなその訳を知りたかったんだろう。
ざわざわしていた教室が急に静かになって、みんなボクのことを見ている気がする。
手が細かく震え出した。
「お、おい、アオが嫌がってるだろっ」
サトくんが後ろから声を上げるけど、体がデカい方が「うるせーな」と声を怒らせる。
いつも止めに入ってくれる女子も今日は何も言ってくれない。
なんか言わないと、怪しまれ——、
「いつも女っぽいとは思ってたけど、やっぱお前ほんとは女なんじゃねーの?」
目の前から聞こえたその一言が、ボクのことを強く貫いた。
——気づかれた?
ドッと一気に笑いが起こる教室。
前後左右から聞こえる笑い声に挟まれて、ボクはもう何がなんだか分からなくなった。
ただ笑われていることだけは理解して、指先ひとつも動かせなくて、泣きたい衝動に駆られる。
男子二人はもう満足したのかボクの前からいなくなる。
圧迫する壁はなくなったのに、ボクはさっき以上に何かに押しつぶされている気がして浅く息を繰り返す。
頭の中で、楽しそうに嘲笑う玉城さんの姿が浮かぶ。
「アオ」
サトくんが隣にいた。
肩に手を置かれそうになって、反射的に身を離す。
「……アオ」
傷ついたサトくんの顔。
ボクは、もう怖くて、どうしようもなくて、ハッハッと息を肩でする。
教室を飛び出して、行く先は保健室。
「あら具合悪いの?寝てなさい」
先生はボクの背中に手を置いてベッドへと誘導する。
その間も体はフラフラして、熱もないはずなのに体が妙にあつかった。
授業開始のチャイムが鳴り響く。
その音を頭まで被った毛布の中で聞きながら、ひたすら時が過ぎるのを待つ。
でもいくら待っても心のざわざわした感覚は落ち着かず、ボクは何もできないままただぼうっとしてるのみ。
「うーん……。なかなか良くならないね」
先生がベッドのカーテンをめくって顔を覗かせる。
言葉は何も発せずに、教室の中のことを考える。
……ボクが女子だって噂されたこと、今はどうなっているんだろう。
見た目じゃ何もわからないはずなのに、どうして勘付かれたのか。
どうして、が頭の中で気持ち悪いくらいに埋め尽くされる。
「早退する?先生、教室からランドセルと荷物取ってくるね」
ボクは言葉も発せずにコクコクと頷くのみ。
すぐに荷物を持ってきてくれた先生と一緒に階段を下り、下駄箱へ。
「じゃあ、気をつけてね」
先生に手を振られ、ボクはまだぐるぐるした気持ちのまま頭を下げる。
でも家に帰ってもまた今と同じ明日が始まる——。
そう考えると怖くて、今にも泣き叫びたくなった。
「——アオ!」
後ろからボクを呼ぶ声に、魂が出そうなほど驚く。
「えっ」
後ろを振り返ると、そこにいたのは息を切らせたサトくん。
「な、なんで」
今は授業中のはずなのに。
サトくんはボクを見つめたまま動かない。
二メートルほど間隔から、これ以上近づいてこない。
「……サトく、……佐藤くん」
なんて言ったらいいのか分からなくて、サトくん相手に声が萎む。
「アオ……。今日のアオ、様子がいつもと違うのは分かってる。どうしたの?」
サトくんの必死な目。
…………サトくんには、話しちゃいたい。話したい。楽になりたい。
グルグル考えてたら、無言になっちゃった。
「大丈夫だよ。ボク、変だなんて思わないから」
サトくんがボクに一歩近づく。
…………変?変、なの?今のボク?頭が、真っ白になった。
みんな、ボクのこと変だって思ってたの?
ボクはサトくんから一歩二歩三歩と下がる。
「アオ?」
そして、身を返して、走った!
「アオ!!」
後ろにサトくんの悲鳴みたいな声が響く。
でも……ボクは振り返らずに、下を向いて、走って走って走った。
雷が打ちつけたようなショック。
……わかった。わかった、玉木さんがボクに味わせたかったこと。
こうして、ボクを辱めて絶望させたかったんだ——。
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