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「いっそ、書いてみんかね」
そう、書店の爺さんに勧められたのは、友人のところに七人目の子(今度も本だった)が生まれてしばらく経った頃だった。僕はというと、相変わらず孤高の独身を貫いていて、読書も、パートナー探しというよりは純粋に楽しむために続けていた。
……いや、嘘だな。強がりを言った。むしろ以前に比べて、運命の一冊とやらを求める気持ちは強くなっていた。友人がたった一冊の本から新しい解釈や感動を次々と生み出すたび、何を読んでも心が動かない自分は、ひどい欠陥品のように思えてくるのだった。
「書く?」
「本をだよ」
「えっ? ……大丈夫なんですか。勝手に書いても。というか、勝手に書いたものが本になるんですか」
「なるとも。物語を印字した紙を綴じれば、何であれそりゃ本だ。私も、ごくまれに扱うことがある。数は少ないがね」
少ない―ーそりゃそうだ。パートナーの本に心が動きさえすれば、翌朝にはもう一冊、勝手に新しい本が増えている。そうやって何の苦もなく新しい本を生み出せる人間にしてみれば、あれをわざわざ人力で書くなど狂気の沙汰だろう。
「いや、でも僕、本なんて書いたこと……」
「書けるとも」
尻込みする僕を嘲笑うように、爺さんはあっけらかんと言った。
「いや、本来、人間は皆その才を持って生まれてくるのだ。それを活かすまでもなく新しい本を生み出せてしまうから、あえて使おうとはしないだけでね。……だが、ごく稀に、何を読んでも『これは違う』と満足できない人間がいる。君のように」
「それは……僕の感性が死んでいるからで」
「いいや違う。君は、むしろ鋭いのだ。その鋭さが、既存の物語とは違う何かを、新しい感性を求めてしまう。だが、そうしたものは既存の本の子としては生まれない。人間の誰かが無から書き出すしか」
「そんな……」
冗談じゃない。爺さんの言葉が事実なら、僕が運命の一冊に出会える可能性は恐ろしく低い、ということになる。
ただ、否定したくとも、心の底では納得してしまっている自分もいた。
何を読んでも、いまいち心に響かない理由。その一つが、新鮮さの欠如だった。どこかで読んだことのある物語、触れたことのある感性――僕にとって、本は面白ければいいわけじゃない。まして、人生の伴侶たる運命の一冊を選ぶとなれば、煌くほど鮮烈な感性が欲しい。
それを、自作の本で補えるならそれに越したことはない。休みのたびに足が棒になるまで市内の書店を巡る必要もなくなる。
ただ、問題もないわけじゃない。
「だとすれば……僕が欲するのは鮮烈な驚きと感動です。たとえ苦労して書いたとしても、それは、あらかじめ僕の中にあった言葉であって、僕にとっては何ら新しいものじゃない。そんなものに……あらかじめ自分の中にあった言葉に、今更、新鮮さを見出せるものでしょうか」
「できるとも」
そして爺さんは、またしても得意そうに笑む。僕は、珍しく正解を当てた出来の悪い生徒の心地がした。
「人間はの、皆、本人が自覚する以上に、未知の感情や知覚を心の底に溜め込んでいるものだ。その、暗く深い井戸から汲み出したものは、書き手自身にとってすら新鮮で、驚きに満ちている。知っているかね、本どもは、そうした人間の無意識から未知の言葉を汲み出し、新たな本として編むのだ」
そうだったのか。そういえば、親に全く似ない子供が生まれることが稀にある。僕自身、どちらかといえば単純な人間と、子供向けの短い絵本との間に生まれた子供だった。おかげで小さい頃は、よく、浮気相手の子供じゃないかと陰口を叩かれたものだ。
僕も、そうした無意識の底から生まれ出た子供だったのだろうか。
「つまり……僕の場合はそれを人力で編め、と?」
「そういうことだ」
そして爺さんは、読みかけの本に栞を挟むと、それを番台に置き、「ついてきなさい」と言って立ち上がる。向かったのは、番台のさらに奥にある古ぼけたドア。ドアの奥は倉庫になっていて、年代物の古い本たちが埃を被ったまま堆く積まれている。
やがて爺さんは倉庫の奥で足を止めると、古い作業机の下からこれまた古い木箱を引っぱり出す。開くと、中に入っていたのは一台のタイプライターだった。
「こいつを君にやろう。古いが、部品は生きているはずだ。油を差せば問題なく動くだろう」
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