戯言と古雑誌

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「ハーフなの?」 「父親がいないから判らない」    透哉は私生児だ。  アメーバのような単細胞生物ではないのだから遺伝子上の父親はいるのだろうが、戸籍上は母親だけの子供として記載されている。    真っ白な肌。色素の薄い巻き毛と瞳。はっきりとした顔貌(かおかたち)。  見た目が日本人らしくないものだから、同じようなことをしょっちゅう訊かれて生きてきた。    ──お国はどちらですか。  ──留学生なの?  ──ハーフ? それともクウォーター?    その都度同じことを応えた。 「父親がいないから判らない」   中学を卒業するまでに、もう何百回そのやり取りをしたことか。  来月、高校に入ったら、また同じことを繰り返すのだろう。透哉は(なか)ば諦めている。  母親は、昨年一月の大寒波の最中(さなか)に男を作って出ていった。  書き置きひとつなかった。    未払いのせいで電気ガス水道の順に止まり、ぼろぼろの借家は、ただの箱になった。  雨風を(しの)げるただの箱に。    家賃も未払いだったのに裏の大家は透哉を追い出さなかった。  食べ物をくれて、お風呂を使わせてくれたりもした。  近所の幼馴染みとその伯父も良くしてくれた。    来月からは、その幼馴染みと一緒に住むことになり、この箱から透哉も出ていく。  必要なものだけをリュックに詰めて、残りは全て処分することにした。  もう母親の失踪から一年以上は経つ。  今更、戻ってくることもあるまいし、あの母親なら売れるような高額なものを残しているとは考えにくかったから、躊躇(ためら)う理由も特にない。    手伝いにきた幼馴染みが雑に物を退()かしながら訊く。 「この押入れの中身、全部ゴミ袋行きで良いの?」 「うん」    水道が止まっているので近所の公園で雑巾を濡らした。  もうすぐ黄昏時だ。  電気が点かないから作業時間が限られてしまう。  急ぎ足で帰ってくると、幼馴染みが如何(いか)にも古そうな雑誌を透哉の前に(かか)げて笑った。   「この──洋楽雑誌。これ、表紙の人、お前に似てない?」    その英字が並ぶ外国の雑誌に覚えがあった。  小学校にあがったころのことだ。  母親がその雑誌を見せながら透哉に語った。    (いわ)く、母親は昔、その人物を追いかけて海外に渡ったらしい。  そして、一度だけ念願叶って関係を持った。そのとき授かった子供が、透哉だという。    ──あなたのパパはスターなのよ。  うそつき。  そう思ったことをはっきりと覚えている。二人きりの写真ならば信憑性もあろうが、所詮ただの雑誌だ。  そもそも子供相手にする話の内容でもないだろう。    幼馴染みはもう笑っていなかった。今度は透哉のほうが本気にすんなよ──と笑ってみせる。 「話半分──というか、嘘ばっかり吐く母親だったし、僕は(はな)から信じてない」 「でも──めっちゃ似てるよ」  幼馴染みは、わざわざ透哉の顔の横に雑誌を並べて比べた。    透哉はむっとして雑誌を手で払った。  ばさり、という重い音。  自分とそっくりな顔が畳の上でひしゃげている。    怒るでもなく雑誌を拾う幼馴染みの背中に、透哉が(あざけ)るように呟いた。 「本当にあの女性は嘘ばかりだから。こないだ、高校へ出す書類──何だったかな、役所へ取りに行ったんだけど」 「うん」 「母親、僕が二歳のときに亡くなってた」  幼馴染みは呆気に取られた顔をした。 「は? じゃあ、あの女の人──去年までここにいた──のは、誰?」    透哉は記憶の中の母親──と名乗っていた女性を思い返す。  日本人だった──とは思う。化粧が濃くて少しだけフィリピン系にも見えたけれど、違和感のない日本語を喋っていた。    派手な安物のワンピースを着て夜毎に出掛ける──漠然と水商売で働いているのだろう──と認識はしていたが勤め先も知らない。  物心ついたときから去年までは、ときどき家に帰ってきていた。ずっと同じ女性だったと思う。    書類が事実なら──透哉の産みの親は別にいることになる。  そもそも父親の件どころか、自分が母親であるということすら偽っていたのだろう。 「何処の誰なのか──判らない」    幼馴染みは「そう」とだけ言った。  十五の子供二人にどうこうできる話でもない。   「この雑誌、俺に頂戴」  透哉は顔を(しか)めた。 「僕は、もう見たくないんだけど」 「お前には見せないからさ」  雑誌を団扇(うちわ)のようにひらひらさせて幼馴染みが言い含める。 「──勝手にしたら?」    あまりあの女性にこだわっているとも思われたくなくて自分が折れた。    幼馴染みが押入れの中身を、ゴミ袋にどんどん突っ込んでいく。  かさかさという軽い音。  薄っぺらい年月。    古びた化粧ポーチ。  よれよれのキャミソール。  錆びた手鏡。    それらが半透明の袋に消えていく様を横目で眺めながら、見えてきた押入れの床板を雑巾で拭いていく。    そろそろ完全に日が暮れそうだ。  薄暗い部屋の中で、ここには、あの女性の写真が一枚もないことに透哉は気がついた。  雑誌の表紙を見ながら語った女性の幸福そうな表情が、いやに鮮明に浮かぶ。  雑誌を処分しそびれたのは、運命か、必然か、偶々か──。     了
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