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 その日から、隼人は己の足をベッドに繋いだ。  もともと外に出ることはない身である。茶化すように「火事とか地震の時はどうするの」と聞いたら「その時は外して逃げるよぉ」と笑った。なんとなく、嘘だろうなと思った。  日に日に儚さの増していく恋人に、喉の焼けるような焦燥感を抱く。帰り道がほとんど駆け足になってしまうのはそのせいだ。不審者に、心ない信者どもに、不慮の事故に、もしくは神とやらに、隼人が害されていないか不安だった。彼は今、まともな精神状態ではない。  隼人は昔……それこそ病にかかるまでは、儚さとは無縁の男であった。  出会いは中学の頃、彼は他所から転校してきた異物だった。それだというのに、底のない図太さと協調性を用いてわずか数日で馴染んでみせたのだ。小中からその空間にいるはずの私よりも、ずっと自然に。  明るくて、運動神経がよく、嫌味がない。人と関わるのが好きで、将来は外国を飛び回るような仕事がしたいと言っていた。当然のように異性からも同性からも人気がある。私とは真逆の存在。  ゆえに、私と彼とが相互理解を深めるのは、並々ならぬ時間と努力が必要だった。主に隼人の。  なぜならば、私は他人を疎んでいたから。気軽に他人に関わることの出来る同級生たちを羨んでいたとも言える。  何かを言って場を白けさせたら、不用意な行動を叱責されたら、そう思うと不安でたまらず、自席から動くこともできない私にとって、隼人はまさに天上人のような存在だった。  天上人が不意に下界に降りてきて、あまつさえ隣で微笑んでいたらひどく混乱する。当時隼人のしたことはまさにそれだった。  席が隣同士になったのを契機に絡まれるようになり、反射的に距離を置こうとする私を、隼人は逃がさなかった。  彼のやることなす事に巻き込まれて、目まぐるしく過ごした学生時代の終わりに、いつの間にか親友の座に収まった彼から告白された時はとても驚いた。同時に強く納得したのも覚えている。  随分と長い間、想いをあたためていたのだなあ、と。  そんな不屈のバイタリティを持つ男が、今では目に見えてしおらしい。いつの間にか彼の口癖は「ごめん」になっていた。歯をみせて笑っていた男が、深窓の令嬢のごとく遠くを見ながら微笑むのは、私を落ち着かない気分にさせる。  天使病が、彼を変えてしまったのだ。  私はその事実に、悲しさと、寂しさと、行き場のない憤りを感じている。  あの翼を引きちぎる事ができたらいいのにと思うのだ。  まともな精神状態でないのは、私の方かもしれない。
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