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6
家に帰ると、恋人が天井にひっかっていた。
ばたばたと動く翼は部屋中に羽毛を撒き散らしながら隼人の意思を他所に上を目指す。だが、そこにあるのは空ではなく硬い天井だ。
「た……たすけて」
いつからそうしていたのだろう。疲れきった様子の隼人が手を伸ばしてくる。私は隼人の足に繋いだ縄をたぐり寄せ、地面におろしてやった。
ずいぶん軽くなったと思う。食事の量が減っているわけではないのに。隼人の血肉を奪うように、翼は大きくなっていく。
白い柔らかな塊が恨めしい。これが、私から少しずつ隼人を奪ってゆくのだ。
『天使は神のみもとに還るのです!』
女の声が頭の中でリフレインする。キンキンと鼓膜がかき鳴らされるような金切り声が、繰り返し、繰り返し響くのだ。何が神だ。馬鹿馬鹿しい。そんなものに隼人を奪われてたまるものか。
…………こんなものが、あるから。
ぶちり。気がつけば白い羽根に手をかけていた。鷲塚んで力任せに引きちぎる。羽根の中に細い血管があるらしく、鮮やかな鮮血が散らばった。
隼人は驚いたような悲鳴をあげた。ばたばたと逃げようとする恋人を押さえつけて、一心不乱に羽根をむしる。彼を失いたくない。怖がらせたくない。そういう想いを抱えながら、乱暴に羽根をむしった。
ボロボロになった翼を前に、これを根本から切り取るのは素手では難しいという事に気がついた。その頃には隼人はすっかり大人しく、小さな嗚咽を漏らすばかりであったので、私が「少し待ってて」とその場を離れても逃げ出そうとはしなかった。
私は熱に浮かされたような頭で冷静に、戸棚から大きな園芸用のハサミを持ち出した。私が戻ると、すっかりみすぼらしくなった白い翼は怯えたように跳ねた。
その根元にハサミを宛がう。
「な、なんで……なんで、こんなことすんの?」
「愛しているから」
一呼吸。端的に答えると、隼人はきゅっと唇をひき結んだ。断頭台にあがる罪人のごとく、よれた翼を差し出す。
ばつん。
私は彼の翼を切り落とした。
悲鳴はなかった。どろりとした赤色が、彼の背中に流れていく。床に散らばった白い羽が、撒き散らされた赤に染まっていた。
「隼人?」
不思議なことがおこった。
ぽろりと、翼が外れたのだ。切り落とした方の根元も外れて、つるりとした白い背中が帰ってくる。
「は」
うぞうぞと、まるでそれがひとつの生き物であるかのように翼が蠢いた。よく見ると、翼の付け根に触角のようなものが生えている。
「……っひ」
思わず飛び退いた。今まで恨めしいものだった白い翼が、途端に慮外の生き物であるかのように思えたからだ。これは一体何なんだ?
翼だったものはもごもごとシーツの上をのたうつと、節足動物を思わせる動きで逃げ出した。床を這い、壁に激突しながらも外に出ようともがいている。生理的嫌悪感を抱かずにはいられない動きに呆然としていると、傍らで啜り泣いていた筈の隼人がゆらりと立ち上がった。
血の気の失せた顔でテーブルの上のガラスの灰皿を手に取った隼人は大股でその生き物に近づき、一切の迷いなく降り下ろした。どちゃっ。どちゃり。鈍い肉質のある音がなんども響く。
「は、隼人……?」
静かになった肉の塊を前に肩で息をしている隼人に、おそるおそる声をかける。こんなに苛烈に怒った姿は初めて見た。
「阿須加の浮気者」
むすっと頬を膨らませて見せる顔は見慣れた、かつての隼人のものだ。憑き物が落ちた様子にほっと息を吐く。
隼人は部屋の惨状を見て、足元に転がる天使の残骸に再び冷えた視線を送った。
「……可燃ごみって何曜だっけ?」
私は黙って袋を取りに立ち上がった。
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