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 ぴぴぴ、と電子音に従って目を覚ました。柔らかくて暖かい布団は手放し難い。だが、私は朝の日差しに従順に、ゆっくりと身体を起こした。  そっとベッドを降りて重たいカーテンを開ける。起きたての太陽の光がまぶしい。空気の入れ替えのために窓を開けると、秋らしいひんやりとした空気が頬を撫でた。  顔と手を洗ってキッチンに向かう。4枚切の分厚い食パンを二枚トースターに放り込み、冷蔵庫から卵とベーコンを取り出した。オリーブオイルをひいたフライパンの上で、それらを適当に焼いていく。ぱきょぱきょ。じゅうじゅう。ぱきょぱきょ。じゅうじゅう。  ぐつぐつと音を立てる油に少しばかりの水を投入。蓋をして表面を蒸してやれば、つるりとした目玉焼きが完成した。見計らったようにトースターがチン、と音を立てる。部屋中にこもった焼きたてのパンとベーコンの香りに、あわてて換気扇のスイッチを入れた。 「いい匂いがする……」  ぼんやりとした声が、ベッドの方から聞こえてきた。もぞもぞとシーツの海を泳ぎ出てこようとする恋人に、私は「おはよう」と声をかける。 「……おはよお」  応えた声は未だ夢の中にあるかのようだった。ぼんやりとしている。幼子なようにむずがりながら、よたよたと身体を起こした彼のシルエットは、大きい。  ばさり。  シーツの山が弾けた。ふわふわと羽毛が舞う。「ああ、くそ。またやった」不機嫌そうにため息をつく青年の背には、一対の巨大な翼があった。  例えるとするならば白鳥だろうか。白くて大ぶりな翼をつけた半裸の男は、宗教画に出てくる天使めいている。彼の人相は精悍だが宗教画とは縁遠い純日本人の顔立ちなので、若干不釣り合いではあるのだか。     肩甲蕀過発達症――通称、天使病。  全国的に流行した感染症と入れ替わりに日本各地で発症し始めた、原因もわからなければ特効薬もない、まったく新しい病気だ。  この病は肩甲骨周辺のひどい痛みと発熱から始まる。次第に肩甲骨回りの骨が肥大し始め、それにつれて皮膚や筋肉も発達していく。翼が体の半分ほどの大きさになる頃には、鳥の羽根に良く似た産毛が生え、本当に翼のような形になる――そういう病だ。  私の恋人である隼人(はやと)はこの奇病に罹患していた。  とはいえ既に熱は退き、体調が悪いわけでもない。背中に生えた大きな白い翼を持て余し、元気に羽根を撒き散らしては、ぶつぶつ文句を言いながら掃除している。 「後にしなよ。冷めるから」 「……そーするぅ」  ベッドから降りた隼人が洗面所に消え、そしてすぐに戻ってきた。鳥の水浴びは早い。「ちゃんと手ぇ洗った?」と聞けば「洗ったよぉ」と眠たげな声が返ってくる。 「「いただきます」」  さくり。焼きたてのトーストを齧る。柔らかなパンの繊維と、バターの塩気が口の中でほどけてゆく。新たしく出来たパン屋で購入したものだが正解だった。また行こう。咀嚼しながら心の中で頷いていると、もぐもぐと唇を動かす隼人と目があった。 「おいしい」 「駅前に新しいパン屋ができたんだよ」 「ふーん」  気のない返事に「今度一緒に行こうよ」とは言えなくて言葉を飲み込む。隼人は視線を泳がせている私には気づかないふりをして、続きを咀嚼し始めていた。    不思議な光景だった。  襟足を刈り込んだ精悍な顔立ちの青年に、純白の翼が生えている。上下で1,980円のスウェットに身を包んだ天使が、トーストに目玉焼きをのせて食べていた。  はにかむように微笑む隼人は、どこか浮世離れしているように見える。それが背中にある異物のためかは、わからないけど。  私は、今、天使と暮らしている。
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