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ド・・・レ・・・ミ・・・ファ・・・ソ・・・ラ・・・シ・・・
1音に10秒ほど、ゆっくり進む。
「声を抑えるようになったね」
「だって、大声は頭をたたきながら歌うようなもの、と」
「今くらいの声だと、より声が伸びて、音程も安定する。唇の動きも上品になった」
友恵は肩を揺らし、うれしさを表す。
「その仕草は良いけど、頭を左右に揺らさないように」
はい、と肯いた。
家の前に小型トラックが来た。
バンドマンたちは自分の楽器を載せていく。かさばるドラムセットを積み終え、宇崎辰男は振り向いた。
「引っ越し先が決まって良かったです。お世話になりました」
門倉に頭を下げ、友恵を見た。
「友恵ちゃん、早く歌手になるんだよ。俺ら宇崎バンドが伴奏を務めるぜ」
「伴奏だけですか?」
「伴奏・・・だけじゃない! この宇崎が書いた曲を友恵ちゃんが歌う、そんな日が来ると良いな!」
去るトラックに手を振る。
門倉邸は少し静かになった。
「歌手を目指すなら、楽譜が読めるようになろう。伴奏無しでも、楽譜だけで歌えるようになろう」
門倉は楽譜を友恵に渡した。
楽譜は『ドレミの歌』と題されていた。
門倉はメトロノームを動かす。すっくりしたリズムが流れた。
友恵には馴染みのある歌だ。母と教科書を手にして、一緒に歌った。
♪ド・・・は・・・ド・・・ナ・・・ツ・・・の・・・ド・・・
ゆっくり歌う。母の声が耳によみがえる。
♪さ・・・あ・・・う・・・た・・・い・・・ま・・・しょ・・・う・・・
「ゆっくり歌うのは難しいものだけど。音程もリズムもしっかりしてるね。いつも感心してしまう」
「ありがとうございます。以前、母と一緒に歌ったのを思い出しただけです」
「お母さんと?」
はい、友恵は大きく肯いた。
「教科書を開いて、字を指先でなぞって、歌いながら字の読み方を教えてくれました」
なるほど、門倉も頷きを返す。
「本を読む時も、確かな音程と確かなリズムで、歌うように。それで、きみの耳は養われた・・・鍛えられた、と言うべきかもしれない」
「鍛えられた!」
「子供の耳は親の声に強く反応する。他人の声の十倍、百倍もね。どんな騒音の中でも、親の声を聞き分けて見つけるように。お母さんの声を聞くのは、きみには喜びだったはず。そうして、耳は鍛えられたんだ」
「はいっ!」
母を褒められ、友恵は大きく肯いた。
今日は門倉が不在だ。
友恵は音楽室で楽譜をめくっていた。門倉の自筆の楽譜・・・表紙のハンコに注目した。
『発売』の赤いハンコは分かった。レコード会社、歌手、曲の題名が書かれている。
『中止』の黒いハンコの楽譜もある。譜面には歌詞も書かれているが、レコード会社や歌手の名が横線で消されていた。曲名はバツ印で消されている。
無印の楽譜は・・・数小節だけとか、途中までしか書いてなかったり。
「門倉先生はプロの作曲家だ。レコード会社や歌手から、こんな曲は、あんな曲はと依頼が来る。その時、これならと出す楽譜を書き溜めている」
高木が楽譜を解説してくれた。
「この『中止』と言うのは?」
友恵が問うと、高木は眉をしかめた。
「もしかしたら、録音して・・・レコードをプレスする直前まで行った曲かもしれない。何かの事情で発売はされず、楽譜だけが残されて・・・かなあ」
「どんな事情?」
「それこそ色んな事情さ」
ふーん、と肯く。太い横線でレコード会社や歌手の名前が消されている。その線を指でなぞった。
楽譜を読んで、歌ってみた。
♪あなたが・・・のぞむなら・・・わたし・・・なにを・・・
ぽん、高木が友恵の頭をたたいた。
「きみには早い歌だ」
ちぇっ、友恵は頭をなでながら舌打ち。
「きみは、まだ楽譜の最上段、メロディーだけを読んでるね。二段目と三段目もあるよ、伴奏やリズムベースのパートだ。タンタタタン、タンタータタン・・・とね」
「そっかあ、そっちまで同時に読むのは難しいなあ」
「バックコーラスの下積みを経て、歌手に独り立ちする場合もある。バックコーラスは二段目より下に書かれている事が多い」
「バックコーラス・・・」
友恵は楽譜の下段を読んだ。
「この曲のリズム・・・なんか、ゆったりしてるね。公園のお花を見ながらのお散歩・・・みたい。もっと早いテンポでないと、新聞配達で歌えないわ。タッタタタン、タッタッタンタン・・・とか」
「新聞を配達しながら歌うの?」
「うん!」
友恵は胸を張った。
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