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「こんな夜中に済まないねぇ……」
謝意を口にする中年女性に、私は完璧な営業スマイルを浮かべてみせる。
「全然いいですよ。ここは病院なんです。何かあったらいつでもナースコールを押してください」
「ありがとうね。昼間もそうだけど、夜中に笑顔で対応してもらえると本当に『白衣の天使』って言葉が頭に浮かぶよ」
女性は嬉しそうに、シーツの上に重ねた苦労の滲む両手を組んだ。
きっと今の私は何処かのバーガーショップの店員みたいな顔をしているのだろう。笑顔に値段は必要ない。にこにこしている方がウケがよく、色々面倒がなくて結果的に手間が減るからそうしているだけ。
「では替えの点滴を持ってきますから、少し待っててください」
そう言ってナースセンターへと戻る。ここは本棟とは分離された脳外科専門病棟。……別名『命の待合室』。
ここの病院ではさっきみたいに『外から』ドナーが持ち込まれることも当然多いが、それだけではない。無論、治療に手は尽くしているものの『薬石効なく』脳死状態に陥る患者も決して少なくない。
そうしたとき。
他の棟に入院している移植待ちの患者へ『命の順番』が回ってくるのだ。それを、誰が責められようか。1人の助からない人間を見捨てることで何人もの重病患者の命を救い、社会復帰させることができるのだ。
実に分かりやすいトロッコ問題。
「……」
深夜のナースセンターに看護師は私だけだった。一人でこっそり、端末を操作する。メールの受信箱に『Lucifer』の名前が。
「さっきの着信バイブはこれか」
私は胸のポケットからいつものペンを取り出し、左手に握る。そしてくるりと一回転させてからメールを開封する。
《至急 RH+AB 心臓優先 Bプラスまでが望ましいが、最悪はBマイナスでも可》
それだけの『オーダー』。相手の本名も分からない、知ってはいけない秘密の指令。銀行の別名義に入る大金の代償。
「Bマイナスでも可……今回はえらく妥協してきたな。焦ってンのか」
ここでBマイナスの臓器とは、やや不健康な50代ないし健康な60代くらいの状態を意味する。使えるのはせいぜいCプラスまでで、Cマイナスは実験か標本用。D判定は再利用不能を意味している。
「『それ』でもマシってことは相手は相当な高齢なんだろうな」
トントンと指先で机を軽く小突く。
「くそったれが。意味あんのかよ、それ。どうせ数年で天国行きなんだろ?」
悪態をつきながも『該当しそうな人間』を探す。なるべく『あの世』が近く、『ギリギリBマイナス』と判定できそうな人間はいないか。
「ああ、いた」
スクロールさせる指先が止まったのは、さっきの中年女性だった。特に感情は湧かない。同情も憐憫も良心の呵責も浮かんでこない。このモードに入った私は悪魔なのだから。
「余命3ヶ月か……うん、ちょうどいいかも。カルテを見る限り、助かる見込みもないし」
私は堕天使モードのままに点滴を準備して、さきほどの病室へと向かった。
一人の人間を、少し早めに天国へと送り込むために。
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