#6

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   ハッと目を開ける。  いつの間にか眠ってしまったようだ。  一瞬、自分がどこでなにをしているのかわからなかったが、砲撃を受けたウクライナのニュース映像を思わる目の前の惨状に、状況を思い出す。  ハルちゃんはまだスヤスヤと眠っていた。しかし、いずれ起きる。その時が怖かった。  頭の中に、PDSDという四文字が浮かんだ。3歳に体験した恐怖と心の傷が、この先、一生彼女を苦しめ続けたら、と思うと、胸が苦しくなった。  何かしなくては。  せめて彼女の壊れかけたこころを救わなければと思った。  その時、倒れかけた柱の向こうに、屋根の隙間から漏れた月明かりが、まるで儚いスポットライトのように私をある一点に導いた。  それは、ハルちゃんが読んでと持ってきた、あの絵本だった。  『ママ 泣かないで ママ 笑って』  あの絵本を読んであげよう。  絵本くらいで彼女のこころがどれほど救われるかわからないが、いま私にできることはそれくらいしかない。  月明かりがあれば、絵本くらいなら読める。ただ漫然と手をこまねいて救助を待っているより、ずっと前向きだし、希望がある。  そう思った時、ハルちゃんが目を覚ました。  体を起こし、寝ぼけたような目で私を見る。 「ママは?」  私はハルちゃんの体に手をまわしたまま、自分たちに何が起こったのかを噛んで含めるように話した。彼女は黙って聞いていたが、みるみる泣き顔になり、 「ママにあいたいよぉーっ!」 と大声で泣き出した。 「ハルちゃん、そうだね。ママに会いたいよね。でもね、いまはできないの。助けが来るまで、お姉ちゃん、絵本を読んであげるから」  絵本という言葉に、ハルちゃんは敏感に反応した。泣くのをぴたりと止めた。  私は、絵本がある方を指差す。 「ほら、あそこにハルちゃんが大好きな絵本がある。見える?」  ハルちゃんが本に視線を向ける。 「お姉ちゃん動けないから」 というと、彼女はこくりと頷き、持ってくる、と言った。 「忍者みたいに行ける?足音を立てずに、そっと取ってこれるかな」  ハルちゃんは目を輝かせ、できる!と言った。  袖で涙を拭い、彼女は歩きだす。足元は不安定だ。もしうっかり転び、折れかけた柱にでも倒れたら、ぎりぎり支えている重い屋根は私たちをいとも容易く押し潰すだろう。  しかし、私の心配をよそに、ハルちゃんは転びもせず、絵本をしっかりと手に持って戻って来た。そして、私の足の上にそっとそっと座った。  私は、本を読む。  その間も家は揺れたが、私たちは絵本に集中していた。  絵本は、かわいらしくもあったが、その深い内容は私の琴線に触れ、最後には涙声になっていた。  絵本を読んで涙したのは、初めてだった。 「ママ、もう一回読んで」  ママ・・・。  ハルちゃんは私をママだと思っていた。 「うん、いいよ。ママ、何度でも読んであげる」  自分をママと言うことに、不思議となんの違和感もなかった。  家は断続的に小刻みに揺れたが、私はもう何も怖くなかった。ハルちゃんも怖がらなかった。  私たちは、一冊の絵本に、物語の世界に、守られていたのだ。  ママ 泣かないで ママ 笑って  ママ 泣かないで ママ 笑って  産んであげられなかった子が、私にそう言っていると感じた。  私は、小さな背中に顔を埋めた。  その体温が、その甘い匂いが、私を癒し、忌まわしい記憶から救い出そうとしていた。 「お姉ちゃん、泣かないで。笑って」  ハルちゃんが、泣いている私を見て、そう言った。  その時だ。  ハルちゃんの大きな瞳の中に、魂の小さなカケラが、流れ星のようにサッと走るのを見たのは。  私は許された。  私は許されたのだ、となぜかそう感じた。 「ありがとう・・・ありがとうね」  私はハルちゃんを、ここにはいない、わが子を強く強く抱きしめた。  家の外から声が聞こえる。    たくさんの声が、  たくさんの人たちの声が、  私たちの名前を呼んでいた。
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