第一話

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第一話

 春一番が強かった。  沙都子は中央線のM駅を降りて、自転車を停めている駐輪場に急いだ。  午後三時。幼稚園の預かり保育をお願いしている息子、陽斗(はると)のお迎えまであと一時間しかない。  風にあおられながら沙都子の頭はめまぐるしく家事の段取りを考えていた。  まずはこのまま、木曜日に特売するスーパーに行こう。そして家に戻ったら車で陽斗のお迎え。  買い物を手早く済ませれば、お迎え前に残り少なくなったガソリンを入れられるかもしれない。  四歳の陽斗は片時もじっとしていられないうえ、車に一人残されると大泣きする。陽斗を車に残したままガソリンを入れるのは避けたかった。  駐輪場は駅から徒歩五分。賑やかな駅前の通りから一つ路地に入った、奥まったところにある。  駐輪場の入口に建つ小さな管理事務所の窓口には、小柄な老人が一人いた。  受付前を通り過ぎる時、その老人がモゴモゴと何やら呟いた。 「お疲れ様」とでも言ったのだろうと、沙都子は気にもとめず会釈をして、足早に通り過ぎた。  中途半端な時間の駐輪場に人気はなかった。ラックにかかった自転車がガタガタと風に揺れている。  自分の自転車へと急いでいた沙都子の足が止まった。 (まただ!)  自転車の前カゴにスポーツ新聞が入れられている。  これで三度目だった。  毎週続けて木曜日。  スポーツ新聞は前の二回同様、アダルト面が見えるように折られていた——風俗店の卑猥な宣伝文句と胸を露わにして笑っている女の写真。  最初は何の感情もわかず、管理事務所前のゴミ箱に捨てた。  二度目は不快ではあったが、やはり同じゴミ箱に捨てた。  しかし三度目ともなると誰かが故意に入れたとしか思えない。  薄気味悪い。  新聞に触れるのも嫌だった。 「水谷さん」  突然声を掛けられてドキリとした。  反射的に振り返りながら、嫌な相手に会ってしまったと思う。  小山美香が自転車を押しながら、テニス帰りの格好で立っていた。 「今日、練習来なかったね。仕事?」  美香は小さな目で、ジロジロと沙都子の格好を見た。  沙都子の心がさらに落ち着かなくなる。  モスグリーンのスカートに白のブラウス、紺のスプリングコートという服装は派手ではないし、美香におかしく思われることはないだろうと、そっと思う。 「水谷さんって、病院の受付だよね? 木曜日も仕事?」  美香の目が前かごに入った新聞に止まっている。  沙都子は自転車の鍵を外しながら慌てて言った。 「——ゴミ、入れられちゃった……」 「あたしもあったよ。空き缶入れられたり、タバコの吸殻入れられたりさあ。管理人いるのに、あいつらナンもしないよね」  沙都子は自転車を押し始めた。  美香もすぐ後ろをついてくる。  大柄な美香が自転車を押しながら狭い通路を通ると、どうしても周りの自転車とぶつかってしまう。それはしかたがないにしても、美香は自転車同士がぶつかる音が気にならないのだろうか、ガシャガシャと大きな音を立てている。  サバサバした天然系といえば聞こえはいいが、幼稚で詮索好きな美香が沙都子は苦手だった。 「ねえ、今度の大会、ペア組まない?」 「……私、仕事で出られないと思う」  美香を疎ましく思うのは沙都子だけではなかった。  同じ幼稚園に子どもを通わせる母親たちで結成されたテニスサークルで、美香は鼻つまみ者だった。  走るのが嫌いな美香は、試合中振り回されると途端に不機嫌になった。パートナーがミスする度に舌打ちしたり、相手ボールがコートに入っていてもアウト判定を繰りかえすので、対戦相手ともめたこともあった。  テニスはマナーの悪い人間が一番嫌われる。  沙都子を含めた母親たちで、美香を除いたグループラインをつくり、こっそり集まっては食事会などをしていた。  管理事務所の前を通り過ぎて歩道に出ると、美香は腕を伸ばして沙都子の前カゴからヒョイと新聞を抜き取った。そしてそのまま窓口にいる老人に突きつける。 「カゴに、こんなの入ってたよ!」  突然新聞を突きつけられた老人は口の中で何やら呟いて、頭を下げた。 「気持ち悪いじゃん! しっかり仕事してよ!」  美香は自転車を押して歩き出す。  沙都子は呆気に取られながら老人に頭を下げ、美香の後を追った。 「ホント、シニアの奴らって働かないよね、税金で小遣いもらってるくせに」  美香は声のトーンを落とそうともしない。  美香の後ろを歩きながら沙都子は受付の老人に聞こえるのではとヒヤヒヤした。  それと同時に美香の背中を見ながら奇妙な感覚を覚えた。  丸みを帯びた美香の背中。食い込んだブラジャーがはっきりとした線を作っている。  沙都子はどこかでこの背中を見た気がした。 (……どこかしら?) 「ねえ、一緒にペア組もうよ」  美香から再度頼まれた時、ぼんやりしていた沙都子はつい承諾してしまった。  美香は子どものように喜んだ。 「やったあ! あたし、水谷さんと組む時が一番うまく打てるんだ」  美香と別れて自転車を漕ぎ出した沙都子は、しばらく美香の背中のことを考えていた。 (思い出した!)  はっとなり、自転車を漕ぐ足が止まった。 (そうか、あの時だ! あれは美香の背中だったんだ!)  
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