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第二話
——この人が、好き。
府中インター近くのラブホテル。絞った間接照明だけの薄暗い部屋に、厚いカーテンの隙間から真昼の光が薄く差していた。
隣でフジタは小さな寝息を立てている。
沙都子は息を殺しながら、男の横顔を見つめた。
はっきりした年を訊いたことはないが四十代後半ぐらいだろうか。生え際に白いものが混じっている。頬骨は高く、鼻はやや鷲鼻だ。
午後一時、フジタがセットした時計のアラームがなる。
沙都子はそっと目をつむった。
フジタがシャワーを浴びている間に、沙都子は素肌にバスローブを身に着けて、ホテルに備え付けのコーヒーメーカーでコーヒーを淹れる。
ベッドを整え、男の衣服を着やすいようにセットした。
去年の秋、行きつけの美容室で女性週刊誌をめくっていた沙都子は、高収入アルバイト情報と書かれた広告を目にした。
『経験年齢不問出勤自由』と書かれた小さな広告。
周囲の広告はいかにも風俗店や水商売の求人とわかるものだったが、その小さな広告には詳しい事が書かれていなかった。『真面目な普通の女性求む』の一文にも興味をひかれた。
担当の美容師がやってきて、慌てて電話番号を暗記してページをめくった。
美容室から出ると、自分のスマホからかけるのはためらいがあったので、近くの公衆電話からその番号に電話をかけた。
呼び出し音が二度なり、やはりよそうと思った途端に相手が出た。柔らかな女の声に心底ほっとした。
その場で面接の日取りが決まったが、それまでの数日は落ち着かなかった。当日もすっぽかそうかと考えたくらいだ。
沙都子は今でも思う。なぜあの日、あの店に行ってしまったのか。
魔が差したとしかいいようがない。
女店主からデートクラブだと説明を受けた時、あまり驚かなかったのは心のどこかで察しがついていたからだろう。
店主はゆかりといった。
ゆかりのおっとりと優しい口調で仕事内容をきいているうちに、汚いことのように思えなくなってきた。
「人が足りなくて困っているの、すぐにでも働いて欲しいわ」
月に何度でもいい、空いている時間だけでいいと、熱心に乞われて沙都子は応じた。
好奇心からなのか、提示された金額に負けたのか。
緊張しながら初めて客と待ち合わせをした沙都子は、サングラスをかけた背の低い老人を見て人違いかと思った。
まさか自分の父親よりはるかに年上の男が来るとは思ってもいなかった。
拍子抜けというより、がっかりの方が近い。
男は呟くような小声で話すので、沙都子は何度も聞き返した。
そのうちそれも面倒になり、いいかげんに相槌を打った。
ホテルに誘われたが断り、食事だけで帰ろうとすると「どうもありがとう」と男は頭を下げて封筒を寄越した。
そそくさと男と別れてから中を見ると一万円が入っていた。きれいなお札だった。
少し後ろめたい気がしたが、帰りの電車に乗る頃にはそれも忘れた。
フジタを紹介されたのは、何度目だったろう。
それまでは似たりよったりの年寄ばかりで、沙都子は顔を思い出すことも出来ない。
以前夫の昌行に、アイドルグループの女の子たちがみんな同じ顔に見えると言ったら、「それは興味がないからだ」と笑われたことがある。
そうなのかもしれない。
何人か若い男(といっても四十代、五十代だが)をゆかりから紹介されたが、どうしてもホテルに行く気がしなかった。
一緒に食事をしていても、みな退屈だった。
適当に返事をしたり微笑んだりしながら、頭の中では今夜の夕食は何にしようかと考えたりした。
早く時間が過ぎることだけを願った。
フジタだけが特別だった。
フジタと会ってから、沙都子は他の男と会うのを止めた。
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