Ⅰ アリア

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Ⅰ アリア

 五歳頃のことだ。お祖母ちゃんの家に泊まる、ぜったい泊まるとごねて仕方がなかったそうで、両親も根負けしてわたしはひとり、お祖母ちゃんと一晩を過ごす日があった。  晩ごはんはケンタッキーだった。手料理を期待していた自分がばかみたいだった。  顔は覚えていないけれど死んだお祖父ちゃんが好きだったそうで、存命中は月に二、三回はケンタッキーを晩ごはんにしていたそうだ。お祖母ちゃんも貧しい時代を生きてきた分、とても有難いご馳走を振る舞ったつもりだったのだろう。わたしだってこんなお肉ばかりのごはんは初めてだ。チキンひと切れですぐに飽きた。  布団に入ったのは夜の七時半。チャンネル争いも不戦敗、ちっとも眠くもなかった。灯りが落とされ、オレンジの豆球だけの部屋で天井しか見えない。ちょっと薄気味悪い。  ——こんなことなら広島に帰ればよかったかな。 「ユキちゃん。眠れんのんなら、いいもの見せてあげようかね」  お祖母ちゃんはそういい、夜具を抜け出して仏間へと立った。仏壇のお鈴の音がして、お祖母ちゃんはだいじそうに木箱を持ってきた。これ? これがとっておきのやつ? わたしは期待しながら待った。 「もう夜だから、一回だけにしような。釣られて蛇が出るかも分からんもんなあ」  お祖母ちゃんは木の箱にある鉄のようなつまみをかち、かちかちかち、と四回ほど回す。木箱の蓋を開けると、ただちに鈴の音のような旋律が流れてきた。オルゴール。オルゴールだ。実物を見るのは初めてだけど、これがそうだと木箱から流れる音色で分かった。内部で触れ合っているのは金属というより、ガラスの音みたいだった。  紅いビロード地の内装に古いくすんだ銀色の指輪が三つと、古い——それも初めて見るような白黒の古い写真がフレームに収まっていた。    曲がひと回りして最初に戻ると、お祖母ちゃんは指輪三つと写真とを丁寧に抜きとり、 「これ、ユキちゃんにあげるよ。さ、今日はもう休みんさい。あしたは桃を食べさせてあげようかね」といった。またオレンジの世界に戻る。  渡されたオルゴールはずっしりと重く、取りこぼしそうになるほどだった。わたしは目を輝かせふたを開けようとすると、 「ほらほら、だめだめ。開けていいのは、一日一回だけ。それから、夜も開けたらいかんよ。ただ、なんだ、どうしようもなく寂しい時だけは開けていいっていうとったなあ」といさめられた。  いっていた? 誰が? ほの暗いオレンジの世界でだんだん眠くなる目をこすりつつわたしはお祖母ちゃんの話を聞く。 「このオルゴールの曲はね、ユキちゃんのお祖父ちゃんが作った最後の曲なんよ。ほら、いつだっけかな、ユキちゃんのお祖父ちゃんは音楽家いうたろ? お祖父ちゃんが最後に作曲した曲をオルゴールにしたんよ。曲名は『あなたのために』っていうんよ」  わたしは布団から半身起きだし、肘をついて横向きになる。  わたしは暗がりに、この世にひとつしか存在しないオルゴールをためつすがめつ検めた。 「世界に、ひとつ。『あなたのために』。誰も知らない、お、祖父ちゃんの、きょ、く——」  わたしはオルゴールとともに広島へ帰った。  たいへんだったのはきょうだい二人からオルゴールを守ることだった。幼いうちはおもちゃにされ壊されるのを常に警戒した。成長してからも気は抜けず、妹が年頃となり、オルゴールというおしゃれ小物を欲しがった時と、弟が質に入れようとした時だ。  しかしそれらを乗り越え、今もわたしはオルゴールとともにあった。知らない曲、けれど知っている曲。毎日一回だけしか聴けないが、それでも十分わたしの心を満たしてくれた。ひらいたときに見える写真を入れる楕円の窓には、気になる男子の集合写真をジャニーズの子をカモフラージュにして重ねて入れてみたり、ジュエリーを立たせる部分にはかわいらしい雑貨アクセを入れてみたりした。  そんなわたしも高校受験を控え、勉強に打ち込んでいたそのころ。  彼氏は、いた。でもその子とは高校入学を機に距離がひらいてゆくものと考えていた。わたしは音楽学類のある県立高校、彼は中学で始めた弓道を続けたいと私学を選んだ。  彼とはごく当然のように別れた。自然消滅だった。 『元からそんなに好きじゃなかったんじゃない? 日南姉なら立ち直りも早いんだし、次だ、次!』チャット仲間はみんなそういっていた。ネット上で「日南」を名乗るわたしは悩んだ挙句、なんとなくその言葉に乗ってのことだろう、別れても何も感じなくなっていた。好都合だった。  わたしは県立高校の音楽学類でオーケストラ部と吹奏楽部に強制加入し、それぞれの識見を深めた。  そんな折、いいなと思える先輩を見つけた。二年生で、バイオリンを弾いていた。バイオリンが花形であることに異論を唱える者はいないだろう。純正律で合わられ、とにかく格好いい。わたしよりずっと前の席で先輩は弾いていた。——詳しいことは割愛するが、とにかく先輩に惚れていたのだ。 『日南さんなら落とせると思うのに、なんでアプローチしないの? なんか勿体なーい』 『日南姉ってお姉さんキャラだし、いいと思うけどな?』   ヘッドセット越しのみんなは本当に無邪気だった。——ひとの気も知らないで。誰だか分からないようにした「日南」のプロフィール写真からか、まるでわたしが美人かのような噂も筒抜けだった。でも、だからこそ、ネットの世界に適性があったのだろう。  何もできずに一年が過ぎた。先輩は三年生、わたしは二年生へと及第した。先輩はすでに進路を決めていたようで、それはオーケストラや吹奏楽部の休憩時間のおしゃべりからも聞き取れた。どうやら芸大を目指すらしい、弦楽器群専攻、やはりバイオリンを専科として副科ピアノで挑むらしい、と。 『日南選手、行っちゃえよー芸大!』 『何いうとんの、芸大ってめっちゃ金かかるんよ?』 『っていうか日南姉にそんなスキルあったっけ?』 「そうね。音高通うだけなら誰でもできるかもしれない。でも鼻歌とオペラは別物。私は——どうかな。その中間かもね」  たしかに、わたしは芸大も音大も目指すだけの技術もお金もなかった。  わたしは悩んだ。悩んだ挙句、先輩の志望校に地理的に近く、得意の国文学科がある国公立大が適当だと判断するに至った。その方面へ進みたいと進路指導の教諭や親にも熱く話した。完璧ともいえる発案だったと今でも思う。 「あたし、古典も近代も勉強したいんです。この大学、国立で規模もあるし、分野横断的に学べるか思うたんです」 「いやあ——でも、ちょっと場所的に遠い思わん? まだ二年生だし、ゆっくり考えてもいいと思いますよ。まあ、模試を見る限りいけそうですけどねえ。でもなー、東京のマイナー国公立より、九大とかどうなん? 旧帝は就活でネームバリュー、大きいぞ。まあ、どうしてもその東京のっていうなら別じゃけど」  まずまずの反応だ。ちょろいな、と感じた。 「そう。国公立だから学費の点なら大丈夫や思うんよ。この大学なら好きな勉強ができるし、全学的に英語に力入れてるから将来ぜったい生き残れるって」わたしは大学のパンフレットを暗誦するように熱弁をふるった。 「はあ。でも——ちょっと遠いな、東京は。ユキ一人でほんとに大丈夫なの?」  親は——まあ、致し方のない反応だ。 「大丈夫。いざとなったら横浜の伯母さんも千葉の叔母さんもいるし」 「まあ、それはええんじゃが——いや、おばさん方には本当はようないんだけど。ただし、もしその大学に受かったら家賃は家持ちにするからな」 「えっ、なんで?」 「母さんもお父さんと同じ意見よ。つまり、家賃が少々高くても治安のいいところに住んでほしいってこと。ユキだったら大学に近いとこ選ぶでしょ?」 「ふつうそうじゃない? 遅刻のリスクも少ないし」 「もう——たまり場になるんよ、そういう物件は。あと、よその子のどんちゃん騒ぎでとても寝れたもんじゃないし」 「——ああ」  意外と真剣に考えてくれている。わたしは自分の嘘を少し反省した。「あ、ありが、とう――」わたしは下を向く。 「まあ、私大や理系と比べたら可愛いもんじゃし、東京行きたいんなら、その、ええと思うで。ただ」 「ただ?」 「うん、ああ、いや——盆と正月には、帰ってこいよ」 「う、うん」 『えっ』 「えっ?」 『えー』 「なによ、もう」 『日南さん、それはちょっと愛が深いというか重いというか』 「あー。でも。好きなことをするためなのに――ほかのこともなんもかんも捨てずにすませるほど、私はかしこくないんだよね」 『あ。日南姉』 『日南さん、このこと、他のひとにも話してもいいタイプのやつ?』 「うん。むしろ推奨。私、まだ解けてない問題があるし、ちょっと外すね」
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