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『かんぱい』
暑気払いの席で僕とかの女は控えめに飲んでいた。だってふたりとも、新入社員だもの。こんなところで羽目を外す訳にはいかないよ。
かの女も顔色の変わらぬ程度しか飲まなかったし、僕も煙草を吸わないでいた。なによりも僕はこのあと(あらかじめ口コミを調べておいた店で)かの女とグラスを重ねる心づもりもあったのだ。入社後初の野心である。
店員がオーダーストップを告げる。飲兵衛のベテラン社員に囲まれた中で、僕はやれやれと息をつく。かの女の方を見る。先ほどよりずっとうつむいており、スマホでもいじっているのかな、と思ったがそうでもない。かの女は目をつむって寝息を立てていた。
そうしてベテランどもが猥雑な言葉を並べては絡む宴席はお開きとなった。「おい、新人。送ってやれよ」といわれ、僕はかの女の腕を持って立ち上がる。「変な真似するなよ。ま、それはそれで楽しいけどな」馬鹿笑いする社員たちを尻目に駅へと歩く。
のろのろとふたり並んで歩いてると急にかの女は立ち止まる。トイレでも探しているのか。しかしかの女は目をくりくりさせ、「待ってましたって感じ!」と、嬉しそうにした――ちょうど調べておいたイタリアンの前で。
「ね、まだ飲めるよね?」と訊かれる。戸惑いながらも事実に即して僕は肯く。これは、どういうことだ。
かの女は手招きしてイタリアンを素通りし、駅近くの繁華街をずんずん歩き、ビジネスホテルを何軒か通り越し、少しさびれた店ののれんをくぐる。
「ただいま!」とかの女。――ただいま?
「おう、こいつが例の跡継ぎか。娘が世話になってるそうじゃないか。その上に老後の面倒も看てくれるとはな、ああ、できたやつだ」と大将が呵々と笑い、カウンターにビールの大瓶をどん、と置く。「挨拶だ。気にするな」座敷に上がったかの女は上着を脱ぎ、スリッパに履き替えビールを取って戻る。
「君、わかりやすくて助かるわ。うちの父さん、跡継ぎ見つけてこいってうるさいのよ。だから君んとこの家継ぐっていう設定にしてね。リラックスリラックス。あ、でも絶対うまくやって」とささやく。
「じゃあ、かんぱい!」きん、とグラスを鳴らす。あんなに冷や汗をかいてビールを飲んだのは、後にも先にもなかったよ。
な、そうだろ?
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