なにもの

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 その光景を見たとき、やっと俺の人生が始まったのを感じた。  学校から帰って夕飯のあと、コンビニにでも行くかと家の玄関を開けた目の前には、薄明りを感じる廊下のような空間が広がっていた。  両側の壁面は本棚になっていて、隙間なく本が詰まったそれは見上げれば果てしない高さがあり、奥行きは暗がりに消えどれだけあるのかわからない。  まるで無限に続く本の回廊。  そこに収まっているモノはどれも見たことがあるような、無いような、文字も読めるような、読めないような……なにひとつはっきりと認識することが出来ない。  けれどもそれがいい。だからいい。  俺だけがする未知の経験という旨味。高揚感を抑え切れないまま数歩踏み込むと、背後の扉がゆっくりと閉じて消えた。  背筋を駆け抜ける高揚感を押さえつけながら臆さず更に奥へと向かう。  どこに光源があるのかいくら進んでもその先は暗がりに消え、にもかかわらず俺の周囲は薄っすらと明るい。 「いらっしゃい、お客さん」  声と共に奥の暗がりから現れたのはオレンジと赤の着物袴にグレーの上着を羽織った、ちょうど俺とおなじかもう少し若いくらいの小柄な女だった。オッサンが使ってそうな地味でゴツい眼鏡の奥で怪しげな愛想笑いを浮かべて続ける。 「ここは世界を問わない書物の殿堂だよ。異世界本屋とでも言えばいいのかな」 「おお、異世界本屋……」  異世界転移系だったか。本にはあんまり興味は無いが言葉にはときめくものがある。  女はくるりと背を向けると「まあ立ち話もなんだ、奥へどうぞ」と返事も聞かずに歩き出す。灯りの動きからそれが俺ではなく彼女を照らしだしたのを察して慌てて後ろに付き従うと、目の前に丸いテーブルと挟むようにふたつの椅子が現れた。  彼女が奥の椅子に座ったので俺も手前の椅子に座る。  そわそわと周りを見回すが相変わらず天井は見えず前後も無限を思わせる本棚と、それに挟まれたそこそこ広いながらも圧迫感のある回廊。  その不自然に置かれた丸テーブルを囲んで、管理者じみた和風の女は左手で急須から湯呑みにお茶を注いで左手で俺の前に置いた。半ばから不自然に垂れ下がっている右袖にそこで初めて気付く。 「まあ一服どうぞ。それで、どうだいこの機会に一冊。売りたい物を持っているなら買い取りもやってるよ」  湯呑みの熱が、夢を見ているわけではないという実感としてじわりと伝わる。俺は深い溜息を吐く。落胆ではない、歓喜や恍惚の溜息だ。 「いいね……こういうの、待ってたんだ」 「おや、本が好きかい」  女が急に食い気味に前のめりになったのでちょっと焦って仰け反り首を横に振る。 「いやそういうんじゃないけど。たまに漫画読むぐらい」 「漫画だって本には違いないよ。実際ここで漫画買ってったお客さんもいたし」 「そんなもんもあるのか……」 「なんでもあるよここには。まあレアものともなればお代も相応だけれども」  なんでも。甘美な響きだ。たまらないな。 「じゃあそうだな、この世の全てが記されている書とか」  とにかく凄そうなものを口にしてみたのだが、彼女は半笑いで肩を竦めた。 「まあも無くはないけど、キミの持ち合わせじゃあまず支払えないよ。言ったろう? お代は相応だって」 「ちぇ、つまんねえな」 「ははは、参考までに聞きたいんだけど、全知に関わる本なんか手に入れてなにをしでかすつもりなんだい?」 「なにをしでかす、か。くくく、胸が躍る言葉だな。でもそれは俺にもまだわからない」 「おお……んん?」  当たり前のことを言ったつもりだったが、何故か怪訝な顔をされてしまったな。 「なにをするにしてもまずはなんかこう、凄い(ちから)が必要だろ。それで日常の悩みをまるで些細なことみたいにずばーっと解決するところからだと思うんだ」 「ええと、うん……うん?」 「大きな(ちから)には大きな責任と困難がつきものだからな。そうこうやってればすぐにあっちからやってくるさ。つまり俺がこれからなにをしでかしてしまうかは、運命しか知らないってわけだ」  当然の帰結というか自明の理というか、炭酸水を飲めばげっぷが出る程度の話だと思うんだが彼女はいまひとつ腑に落ちない表情だ。やはり俺の思考回路が特別ということなのか。理解されない者の孤独ってやつだな。  少しの(あいだ)視線を泳がせながら思案顔だった彼女は愛想笑いを消して上目遣い気味な瞳を俺に向けて来た。 「大きな(ちから)なんてキミが思ってるほどいいもんじゃないよ。事実、そういった本をここに持ち込んで手放していったお客さんは枚挙にいとまがない」 「そりゃそいつが(ちから)を使い終えたってことじゃねえの。なにかを成し終えたら過ぎた(ちから)が邪魔になるってのはよくある話だろ。世界が平和になれば勇者は不要みたいな話でさ」 「確かにまあ、言われてみればその(ちから)をまったく使っていない、というお客さんはいなかったような気もするけど」 「だろ? そいつの栄光の日々は終わり、新たな持ち主の手に渡るためにここへ流れ着いたのさ。つまり俺のためにってこと」 「めげないその姿勢は評価するけど」  彼女はヌルい笑みを浮かべて自分の湯呑みにお茶を注ぎ、左手で掴んですする。 「さっきも言った通りこの場でお代を払えない本は譲れないよ」 「くっ、強情だな」 「お互い様さ。それで、ほかに欲しい本は無いのかい。無ければ今日のところはお帰りいただいても構わないけれども」 「いやいやちょっと待ってくれ、そりゃねえだろ」 「そうは言われてもここは本屋だからねえ」  確かにその通りではあるんだが、この千載一遇、いや生涯一度しか無いだろう機会をみすみす逃して現実に戻るなんて冗談じゃない。 「そのだな、なんか、こう、なんだ。いい感じに運命の一冊が欲しいんだよ俺は」  自分でもなにを言ってるのかいまいちわからない感じになってしまったが偽らざる本音だ。俺は財布から昼食分ぐらいの紙幣を取り出して「出来れば、これぐらいで」とテーブルに置く。代金第一ならむしろ先に金額を提示しておく。あとはお任せだ。  女は呆れ顔で湯呑みを置いて眼鏡を少し押し上げ眉間を揉んだ。 「そんな顔しないでくれよ。払える範囲内でお勧めを一冊頼んでるだけだろ」 「いやまあそうだけどね……まったく」  彼女は深い溜息を吐いて背を反らし、回廊に敷き詰められた本棚に視線を巡らせたあと、すぐそばの棚に手を伸ばして一冊の本を抜き取った。 「ま、これなら譲ってもいいか」  目の前に置かれた本はノートサイズで指二本ほどの厚みがあった。 「これはこの世にただ一冊、キミだけの本だよ。もっとも、これをキミの人生の役にたてられるかどうかはキミ次第だがね」  手に取るとずしりと重みを感じる。こういう重厚感は悪くない。 「サンキュな。で、これはどんな本なんだ?」 「それは読んでみてのお楽しみさ。まあ帰ってからじっくり楽しんでくれたまえ。お帰りはあちらだよ」  彼女が指差した俺の背後を振り返ると、いつの()にかそこに扉があった。  俺は吸い寄せられるようにふらりと立ち上がって扉を開く。 「まいどありがとうございました」  気のない女の挨拶が聞こえた。
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