クレオパトラは激怒した

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 晴奈はガタンと席を立ち、例の男を睨みつけた。男はなんだなんだ?と、立ち上がった晴奈を見る。 「ごめん。私、帰るね」  お札を5枚、バシッとテーブルに置いて、晴奈はスタスタと席を離れた。 「え?晴奈?どうしたの?」  「……おい篠田、謝ってこいよ」 「え?!俺のせい?」    後ろから何やら聞こえるが、晴奈はとにかく、前に進んだ。そして店の入っていたビルを出て、ヒールを夜道に響かせて、明るい方へと歩き出す。 「……晴奈さん!晴奈さん」  後ろから呼び声が聞こえて、振り向いた瞬間、肩を優しく叩かれた。さっきの男だった。  篠田とかいう男だったか。捨てられた子犬のように、しゅんとした顔をしている。 「……なあに坊や」 「いや、あの……晴奈さん、俺の発言がなにか、気に障ってしまったんですよね?すみません……」 「……」 「駅まで送らせてもらっても……いいですか?」 「本屋に寄るから」 「本屋?」 「……さっきの『アントニーとクレオパトラ』、読んでみなくちゃ」 「そうですか!お供します!」  篠田は一転して顔を輝かせ、晴奈の隣を元気に歩き出した。 「さっきの一文は過激でしたけど、シェイクスピアはどの時代にも共通する人間性を克明に描き出していて、彼の生きた時代から遠く離れた現代の日本人が読んでも面白い作品が多いんです!」 「……」  篠田は晴奈が単純にシェイクスピアに興味を持ったと思っているらしい。アホだなこの男、と晴奈は思った。勉強ができて、顔がいいだけのアホな男。前世にもたくさんいた。  駅前のそれなりに大きい本屋につく。海外文学コーナー。サ行。さ……し……シェイクスピア…… 「晴奈さん!ありました!これです。『アントニーとクレオパトラ』!」  ブーメランを咥えて戻ってきた犬のように、篠田は晴奈にその本を手渡す。晴奈はそれを無言で受け取り、ページをペラペラとめくった。   「さっきの食べ残し発言は、アントニウスとクレオパトラが喧嘩するシーンに出てきます」  聞いてもいないのに篠田は喋り出す。 「あ!ここです!『初めて会ったとき、あなたは死んだカエサルの皿で冷たくなった食い残しだった。いやポンペイウスの食べこぼしだった。(※)』  ……うーん、やっぱりひどい。いくらなんでも、こんなこと女性に対して言っちゃダメですよねぇ。でもこういうシェイクスピアの過激なセリフが、現代にまで伝わるクレオパトラのイメージを作り上げた要因の一つなんでしょうね。クレオパトラは美女だけど悪女で、男をたぶらかして最後は自業自得で死んでしまう。ある意味哀れな女、っていうイメージ」  篠田が何気なくそんなことを言うと、晴奈はバタンと本を閉じ、目も閉じた。篠田は一瞬ピクリとしてから、おそるおそる晴奈の顔を覗き込む。 「……晴奈さん?」  そして、大きな二つの目が、カッ!と開いた。
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