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長い上り坂を足を途中で足をつかず、自転車で一気に駆け上がれたら、その日は一日絶好調になる。今朝も紫苑は自分で作ったジンクスを達成し、片手でガッツポーズを作ると「よっしゃ」と呟いた。
意気揚々と校門を抜け駐輪場から人気のない校舎に向かうと、小鳥の囀り声が木立の間から聞こえてくる。寝不足の目に太陽は眩しすぎて大きな目を細めると、金木犀の甘い香りが秋風に運ばれ、柔らかく頬を撫ぜていった。
毎朝8時。教室で待ち合わせて、受験のための自習勉強をする。
それが部活を引退してから紫苑と親友の楓眞が二人で決めたルールだ。教室に入ると、親友はいつも通り窓側の席に座っていた。楓眞は吹奏楽部だが背がすらりと高く体格がいい。髪型も鼻につかぬ程度にいつも格好よくセットされている。大学生の姉の薫陶を受けているから雰囲気からしてお洒落で女子受けもすこぶるいい。毎年必ず誰それに告白されたみたいと噂に上るほどだ。
対する紫苑は平均よりは背が高く野球で鍛えた身体は引き締まっているが、ついこないだまでTシャツにジャージの下が普段着だった男だ。だが近頃では「紫苑は目鼻立ちが整ってるから何着ても似合うよ」なんていう楓眞の言葉を真に受けて、洗顔以外にも鏡の前に立つ時間も増えた。
楓眞は長い足を持て余すように椅子に腰かけている。大好きなチェット・ベイカーの曲を聴いているのか、軽快にリズムを取る広い背中に紫苑は野球部仕込みの大きな声で背後から呼びかけた。
「おはよー!」
「うわっ、びっくりした。おはよう」
ワイヤレスイヤホンを外しながら首を巡らせ、楓眞は秋風に負けぬぐらい爽やかな笑顔で応えてくれた。今朝はいつにもまして会いたくてたまらなかったから、紫苑はにこにこの上機嫌で楓眞の元へと駆け寄った。
「俺、18歳になったぞ! 祝え!」
「おお、おめでとう。ってか知ってる」
「だよなー」
紫苑はリュックを手近な机の上に置き、スマホを取り出して楓眞が送ってくれた『ハッピーバースデー』動画をタップした。途端にトランペット独特の味わいのある音がはじけるように静かな教室に鳴り響いた。
「わわっ」
紫苑は落ち着きなく足踏みしながら、慌てて停止ボタンを押した。
「昨日も最初爆音で鳴らしちゃって、兄貴に『夜中だぞっ』てボコられた」
「そりゃ、ごめん」
「いや、嬉しかった」
「良かった。紫苑は人気者だから、野球部の連中とか、……女子からも、沢山ハピバメッセージ来ただろ?」
「まあ、来るには来たけどさ。楓眞が一番乗りだったし。ありがとな」
「そうだったか」
野球部の連中は普段から試合中の自分のハイライト写真に音楽を合わせた感動系歌詞動画を上げがちだ。紫苑が引退した時は後輩がぐっとくる動画を作ってくれたし、今回はチームメイトが紫苑の誕生日用に記念の動画をSNSに載せていた。それとは別にクラスメイトも紫苑の野球のユニフォーム姿と去年の文化祭で意外な好評を博した『無茶苦茶可愛いメイド服姿』の写真を交互に表示して、『どっちがタイプ?』なんて面白おかしい動画にしてくれた。
どちらもすごく凝っていて面白かったが、楓眞は紫苑が好みそうな美しい空や海の風景動画に、自分がトランペットで演奏したバースデーソングと吹奏楽部が試合中に演奏した応援歌を組み合わせた動画をDMで送ってくれたのだ。
「おう、あれどこで録ったの? 部室?」
「河原。家の近所の、いつも練習してるとこ」
「あの河原かよ。だから最後らへん車の、ぱっぱーって音がした」
「ぱっぱーって」
そっけなさを装っては見たが、内心顔が緩むのを止められない。前の席の椅子をがががっと音を立てて後ろ向きにし、顏が良く見える様に向かい合って座った。
「バースデーソング、あれも嬉しかったけど。応援歌はすげぇ、ぐっと来た。ちょい泣けた」
「おお、泣いたか? 狙い通りだ。負けず嫌いの紫苑を一回ぐらい泣かしてみたかった」
「あー、くそ。腹黒楓眞の術中に嵌った!」
あははっと大声で笑いあいながら、そんな風にふざけてはみたが、この夏。三年生最後の公式戦。あの曲に何度救ってもらったか分からない。
引退前最後の公式戦。紫苑は暑さにやられ、本調子でなかったのをひた隠しにして試合に出た。炎天下の中、辛くて何度も交代を申し出ようと思ったが、そのたびに響き渡る楓眞のトランペットに「頑張れ、耐えろ、負けるな」とエールを送ってもらった。
陽炎が立つグランドに立ち続ける為、悔いのない野球人生を終える為、紫苑は夏空に響くその音を腹で受け止め、勇気を奮い立たせた。おかげで試合半ば価値ある一点を返す快音を、自らのバットで響かせることができた。
中学の時はやる気のない部員にキレ対立し、負けん気の強さからクラス内でも浮いてしまった時があった。そんな時は穏やかでクレバーな楓眞が周りとの間を幾たびも取り持ってくれた。
『頭ごなしに相手を否定しないほうがいい。相手の言い分も一度受け止めて、その上でお前の言いたいことを伝えてみろ。諦めるな。投げ出すな。お前は粘り強いのがお前のいいところだろ?』
共に過ごす中で紫苑も少しずつ成長していったが、よりよい人付き合い方というものを楓眞に教えて貰ったのは間違いない。
高校に入って勉強と部活の両立に悩んだ時も、今朝しているように時間を作って自分も忙しいだろうに紫苑の学業面のサポートもしてくれた。いつだってそんな風に、紫苑が道に迷うたびに背中を押してくれた楓眞だ。楓眞がいなければきっと中学も高校も沢山の友人に恵まれることなく終わったんじゃないかと思う。
放課後の練習中、校舎から流れてくる吹奏楽部の音の中に楓眞の存在を探していた。
昨日の夜。兄と相部屋の二段ベッドの下でごろごろしながら、リピートを繰り返し愛おしい音色を聞いていた。聞くたびあの夏の熱い気持ちが蘇り、それはやがて楓眞へのひた隠しにしてきた想いをも呼び起こし、疼くような恋情は一晩で抑えきれぬほど増していった。
親友のままでいたいから、気持ちは伝えまい。
何度もそう思って蓋をしてきた気持ちがあぶくのようにあふれ出す。のぼせそうになって夜気に当たろうと窓を開けたら、金木犀の芳醇で狂おしい香りが紫苑を包み込むように漂ってきた。
この香りを嗅ぐたび、この恋を思い出してしまうだろう。そんな風に感傷的になる晩だった。
『ああ、俺こいつの事好きだなあ』と胸を焦がしながら、紫苑はまんじりともせず、いつも通りの朝を迎えたのだ。
「紫苑が成人か。立派になって、俺は嬉しいぞ」
「なんだそれ、誰目線?」
「同中同級生。いつもお前を見守ってきた、私設応援団長目線」
「ピッチャーはともかく。ショートの応援団とか聞いたことねぇ。あーあ。成人した実感ねぇ。酒飲めんし。中途半端だよな」
「ほんと、それな。二日酔いで授業出るとかしてみたかったな」
「なんだそれ、楽しいのか?」
「楽しくはないだろ。だけど何事も経験だ」
「でた、楓眞のおっさんくさい発言。お前二日酔いなんてなったら、部室でトランペット口に持ってって「うっ」ってなるんじゃん」
「やめとけって。野球部応援しながらえずくのとか、絵面やばいだろ」
「だな」
くだらないことを話して、胸のドキドキを少しだけ反らす。窓から差し込む日差しのせいだけじゃない。今日は朝から何でも輝いて見える。
誕生日マジックで、自分が主人公になった気分だからか、それとも大好きフィルターがかかって、格好よく見えているのか。見慣れた楓眞の飄々とした顔が、今日はなんだかやけに凛々しく見える。
特別なこの朝が待ち遠しくて堪らなかった。何かを変えるにはきっかけが必要だから。今日はうってつけの日になると思っていたのだ。同時に朝が来るのが怖くて堪らなくも思った。何も変えたくないと、失いたくないと思う自分の弱さにも向き合わねばいけなくなるから。
時がたつのは早い。開け放した窓の下、だんだん登校してくる人の気配がする。
焦りを顔に出さない、じりじりとタイミングを図る。紫苑は机に手をついて、小首を傾げるような姿勢で掌に頬をのせた。友人の澄ました顔をしたから覗き込む視線でとらえる。
「18になったからさあ、結婚できんの、俺」
唐突かと思ったが、楓眞はすんなりと会話を続けてくれた。
「まあ、そうだな。こないだもクラスの女子がそんな話してたな。いきなり結婚する奴がいたらすげぇって。見てみたいって。勇者だっていってたな」
「だな……。でもさ、俺、結婚できんの」
じっと見つめる。渾身の熱っぽい視線を、大好きな人に送ってみる。掌がじんわり汗をかく。頬も熱くなる。
「まあ、相手いないとだからな」
「そうじゃないんだ」
低い声で強めに遮ったら、楓眞も少し真顔になった。いつも柔和な笑顔を絶やさない、でもこういうきりっとした表情も、好きだって思う。
好きだ、楓眞。自分だけのものになって欲しい。
触れたい。口実が欲しくてどうしたらいいのかいつも考えてた。いつもいつもいつも……。
昨日の晩からずっとそうだ。『告白』の二文字が頭に浮かんでは消える。ちっか、ちっか。進め、止まれ。信号機みたいに。
いうか、いわないか。いってどうする、いわないほうがいい? どっちの後悔がまし?
心の中で振り子みたいに気持ちが揺れる。こんなに迷ったことは人生で初めてだ。ど、ど、ど。心臓の音は楓眞にも聞こえているんじゃないだろうか。
顔が熱い。耳を猫が顔を洗うみたいに擦った。耳の先、林檎みたいに赤くなっているかもしれない。黙ったら教室の時計の秒針がこちこちこちっと聞こえてきた。楓眞といると、いつだって時間は矢のように立つのが早い。
もうじき、ここは二人だけの場所ではなくなる。
18歳の朝、特別な好きな人と二人っきりになれたこの時間は人生でもう、二度と巡ってこない。
フルスイングで空振り三振。高校生活最後の打席は少しの悔いを残して終わった。
また、空振りに終わるのか。それどころかこの恋までも空振りのままゲームセットに至るのか。
紫苑は密やかに、すうっと息をすった。
「法律上、好きなやつとは、結婚できんの」
「ほう、なんで?」
「だって相手、男だから」
自分で言って、動揺して、紫苑は靴底で床をきゅっと擦った。意気地がない。顔をそむけて下をしまった。
怖くて楓眞の顔が見られない。たっぷりした間があって、楓眞がくしゃくしゃっと紫苑の頭を撫ぜてきた。優しい仕草に、ぶわっと目頭が熱くなる。
「……そっか。なら婚約だけでもしとけば? いつかできるようになるかもだろ」
「……いつか」
「もしくは結婚出来る国に行くとか、パートナーシップ条例あるとこで暮らすとか」
楓眞は察しがいい方だからと、告白めいた言葉を口にしたつもりだったのだが、空振りに終わったようだ。このまま誤魔化してしまおうか、ずるい考えが頭を過る。少なくとも親友を失わずにはすむ。
得られなくても、失わない。
それはいいことなのか、悪いことなのか。分からない。鼻の奥がつんっとしてきた。だが泣くわけにはいかない。
今日は18歳の誕生日。陽気でくよくよこだわらないさっぱりした性格の野球部員の『紫苑』は、こんな日に親友の前で泣いては駄目なのだ。
普段通りに呟こうとした声は、残念ながら震えて小さくなった。
「……まあそうだな。その前に相手にうんって言わせんとな」
そう呟いて、参考書の上に載せた拳をぎゅっと握りしめた。やがて視界が涙で滲んで、もう顔を上げられそうにない。
「そうだな。相手ありきだな。じゃあまあ、手ぇ出してみて」
そう言われたからすっと、拳のままの右手を楓眞の方に少しだけ伸ばす。
「逆、左手」
動いたら涙が零れそうだ。何も言わずにそっと左手を差し出すと、楓眞が筆箱をがさがさと漁り始めた。かちかち、とシャーペンの芯を出す音がする。何事かと耳は音に集中しながら、差し出した手の甲をぼんやり眺める。すると濃いピンク色が目に飛び込んできた。
「はい。なに? この付箋」
握りしめていた左手の拳を緩めて、顏のすぐ近くまで持ち上げる。左手の薬指。味もそっけもない小さな灰色のハートマークがかかれた付箋が貼り付けられていた。つめていた息を吐いたら、踊るようにひらひらと付箋紙が躍る。
「これって……」
期待で胸が締め付けられる。でももしかして自分の一方的な思い違いだったらどうしよう。迷いを断ち切るように手を下から自分よりも大きな掌に握りこまれる。親指が愛おし気に手の甲をなぞる。
こそばゆい、触れられて、天にも昇るほどに嬉しい。
「ここ、俺が予約しとくからさ。来月まで待っといて。俺11月生まれだから」
「……だから法律で結婚出来んのだって」
「うるせー。そんなんどうでもいい。お前が好き」
きっぱりとそう告白されて、覗き込んできた顔があまりにも、分かっていたけどもものすごくイケメン過ぎて、紫苑は思わず気の抜けた声で魂を持っていかれたように呟いてしまった。
「お、俺も好き」
「婚約しとこうぜ」
「うん」
「ハピバ!」
18年間生きてきた中で、多分今が一番。嬉しすぎて涙がぼろぼろ零れた。涙の雫を拭ったら、顔をがっしり掴まれた。
「約束だ」
おでこにちゅっと楓眞の先制攻撃がさく裂した。もう廊下の方からざわざわと人の声が聞こえてきた。
これは負けていられない。すぐに一点返さねば。
紫苑はぎゅっと目をつぶると、センスのいいコースでもって、楓眞の唇に自分のそれをヒットさせた。
終
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