したっけ

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「さて、安心したら、また眠くなってきたわ」 「……もう、行くのか?」 「うん、そろそろだべね」  見つめた私の指先が、さっきよりも色味を無くしている。  トロンとした幸福感の中で、ユラユラと周りが揺れ出した。  このわずかな時間は神様がくれたご褒美かもしれない。  十八歳で死んだ私への慰めみたいな。  目の前の睦月の顔がまだ泣いていることだけは気がかりだけど。  大丈夫、私はこれからも睦月の幸せを願ってるからね? 「帰ろ? 睦月」  私の声に導かれるように立ち上がった睦月は、あの頃のように右手を差し出してくれる。  一瞬躊躇して、だけど感触のない透明な左手をからめた。  なにも話さずに隣を歩いているだけで、幸せな気持ちになるのは、あの頃と同じだ。  睦月の醸し出す、この優しい空気が大好きだった。  あの日が最後じゃなくて良かったな。  もう一度こうして睦月と歩くことが出来て、なまら幸せだな。  見上げた睦月は、私の視線に気づいて、三日月みたいに目を細めた。  私の家の近くで立ち止まった睦月に、名残惜しそうに手を離す。 「明日、気を付けて帰るんだよ」 「母さんみてえな台詞だな」  オレンジと紫の混ざり合う黄昏の中、クスクス笑い合う睦月の目線は、私とはもう合っていない。  ああ、そうか、もう私の姿が見えていないのか。 「睦月、元気でね」 「うん」  小さな返事が聞こえたあと、睦月は何かを決心するように、ひゅうっと息をのみこんだ。 「言いそびれてたけど」 「今? なして、このタイミングで?」 「うん、今日言ってなかったなって」 「もう時間ないけど、長い話?」  ううん、と頭を振った睦月が顔をあげた。 「奈緒は俺の初恋で、永遠の好きな人だってこと。それだけは、伝えておきたかった」  見る見るうちに、照れたように笑った睦月の顔がボヤけていく。  どうすんのさ、名残惜しくなって私が成仏できなくなったら。  だけど、わかるんだ。  満たされた心が、炭酸みたいにシュワシュワと弾けて後に残る優しい感覚。  真っ白な世界に行けるような気持ちになっていくのが。 「ありがと、睦月。私からの返事は、いつかまた別の世界で」  私の冗談に睦月は笑って頷いた。  大好きな笑顔だったから、きっともう大丈夫。 「したっけね、もう私行くね」  私たちの明日へと続いた合言葉を口にする。 「したっけ……、したっけね、奈緒」  夕陽を吸い込んだら、溶けていく感覚に。 『したっけ』  心の中で返事をしたら、静かになった。  静かな静かな真っ白い世界で、またゆっくりと睦月の夢を見続ける。  幸せを祈りながら――。
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