37人が本棚に入れています
本棚に追加
料理皿が空になり、早紀は食後の紅茶カップを掴もうとする。
伸ばした手を止めた。
「そうだ。この間、昼休みに隣の号館から歌が聞こえてきたの。ベランダに出てみたら、短髪の大柄な男子がフランス語っぽい言葉で歌ってた。長い手足を広げて大声で。
向こうから陽が差しているから、誰か分からないんだけど。それが耳に反響して離れない。近くにいたヨーロッパ言語科の人に聞いたら、脱走兵についての歌なんだって。
大統領に戦争反対の手紙を書いた兵隊。オレは人を殺すために、産まれてきたんじゃない。武器も持たずに逃げだす。仲間に背後から撃ち殺されても構わない……痺れる歌詞だよ。歌っていた彼は何科だろ」
機関銃のように話す早紀の頬に、ほんのり朱が差す。
目の前の友人が眉をひそめたが、これには私も同意見だ。
(数日で早紀は正樹と別れて、脱走兵の彼を探し始めるね)。
すると、胸を潰されるような痛みを感じ、感覚が現実に引きずり戻されていった。
*
私の耳に鳴り響くのはシャンソンではなく、救急車のサイレンだ。白い天井が目に飛びこんでくる。隣で早紀が泣きながら手を握ってくれていた。
先程までの白昼夢と違い、車内には緊迫感が漂っている。
サイレンを鳴らし、前進する車はすぐに病院へ着いた。救急隊員が建物の裏口へ、私の乗った担架を運ぶ。
数時間後。
診察室で神妙に座る私に、医師が伝えた病名は『特発性自然気胸』というものだった。一時的に肺に穴が開き、空気が漏れていたらしい。痩せ型の男性がなりやすいが、私のような女性がなるのも珍しくないという。
「搬送中に穴は閉じたみたいで、大事には至りませんでした。軽度なので入院も必要ないでしょう」
薬は出すから一週間、家で安静にするように。そういう医師に、駆けつけた両親は幾度も頭を下げた。
三人で駐車場へ向かう道で、早紀はどこ、と母に訊く。待たせるのも悪いので帰宅させたとの答えだった。
後部座席に乗り込むと、私は一気に脱力した。「死ぬかと思った」と口に出した途端、唇が震えだす。ルームミラー越しにそれを見ていたのか、父が軽口を叩いた。
「無事で良かった。慌てて病院に来たけど、思ったより大丈夫そうで安心したよ。しかしこれだけ医療が進歩しても、原因不明の病気って沢山あるもんだなあ」
ハンドルを大きく右に切り、車は十字路を曲がった。
家に到着したのは夕方過ぎ。空に広がる藍色の帳が、一日の幕を閉じようとしていた。
今日は早く寝ちゃいな、という母の言葉に甘えるとする。手洗いをしてパジャマに着替え、二階の自室へ。
ベッドの上で壁掛けのカレンダーを確認してがっかりした。明後日から冬休みになるのに。これから一週間、家で安静にしてなければならない。
布団をかぶって目を閉じると、早紀の顔が浮かぶ。携帯電話を取りだし、無事である旨のLINEを送った。
すると連絡を遠慮していただろう彼女から、堰を切ったかのように、大量の返信がやってきた。
最初のコメントを投稿しよう!