1人目

3/4
前へ
/10ページ
次へ
 料理皿が空になり、早紀は食後の紅茶カップを掴もうとする。  伸ばした手を止めた。 「そうだ。この間、昼休みに隣の号館から歌が聞こえてきたの。ベランダに出てみたら、短髪の大柄な男子がフランス語っぽい言葉で歌ってた。長い手足を広げて大声で。 向こうから陽が差しているから、誰か分からないんだけど。それが耳に反響して離れない。近くにいたヨーロッパ言語科の人に聞いたら、脱走兵についての歌なんだって。 大統領に戦争反対の手紙を書いた兵隊。オレは人を殺すために、産まれてきたんじゃない。武器も持たずに逃げだす。仲間に背後から撃ち殺されても構わない……痺れる歌詞だよ。歌っていた彼は何科だろ」  機関銃のように話す早紀の頬に、ほんのり朱が差す。  目の前の友人が眉をひそめたが、これには私も同意見だ。 (数日で早紀は正樹と別れて、脱走兵の彼を探し始めるね)。  すると、胸を潰されるような痛みを感じ、感覚が現実に引きずり戻されていった。 *  私の耳に鳴り響くのはシャンソンではなく、救急車のサイレンだ。白い天井が目に飛びこんでくる。隣で早紀が泣きながら手を握ってくれていた。  先程までの白昼夢と違い、車内には緊迫感が漂っている。  サイレンを鳴らし、前進する車はすぐに病院へ着いた。救急隊員が建物の裏口へ、私の乗った担架を運ぶ。  数時間後。  診察室で神妙に座る私に、医師が伝えた病名は『特発性自然気胸』というものだった。一時的に肺に穴が開き、空気が漏れていたらしい。痩せ型の男性がなりやすいが、私のような女性がなるのも珍しくないという。 「搬送中に穴は閉じたみたいで、大事には至りませんでした。軽度なので入院も必要ないでしょう」  薬は出すから一週間、家で安静にするように。そういう医師に、駆けつけた両親は幾度も頭を下げた。  三人で駐車場へ向かう道で、早紀はどこ、と母に訊く。待たせるのも悪いので帰宅させたとの答えだった。  後部座席に乗り込むと、私は一気に脱力した。「死ぬかと思った」と口に出した途端、唇が震えだす。ルームミラー越しにそれを見ていたのか、父が軽口を叩いた。 「無事で良かった。慌てて病院に来たけど、思ったより大丈夫そうで安心したよ。しかしこれだけ医療が進歩しても、原因不明の病気って沢山あるもんだなあ」  ハンドルを大きく右に切り、車は十字路を曲がった。  家に到着したのは夕方過ぎ。空に広がる藍色の(とばり)が、一日の幕を閉じようとしていた。  今日は早く寝ちゃいな、という母の言葉に甘えるとする。手洗いをしてパジャマに着替え、二階の自室へ。  ベッドの上で壁掛けのカレンダーを確認してがっかりした。明後日から冬休みになるのに。これから一週間、家で安静にしてなければならない。  布団をかぶって目を閉じると、早紀の顔が浮かぶ。携帯電話を取りだし、無事である旨のLINEを送った。  すると連絡を遠慮していただろう彼女から、(せき)を切ったかのように、大量の返信がやってきた。
/10ページ

最初のコメントを投稿しよう!

37人が本棚に入れています
本棚に追加