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1、黒き森
雲一つない澄みきった青空の下、黄金の輝きを放つ実り豊かな小麦畑のすぐそばを麦わら帽子を被った少年と桜色のワンピースを着た女性が手をつないでゆっくりと歩いていた。
少年が隣を見上げるとその女性がこちらを身を下ろす。顔はよく見えないが微笑んでいるようだ。
彼女の声が聞こえる。
「ーーーー」
その声は引き伸ばされ湾曲した様に聞こえるが、少年にはそれが自分の名前だとすぐにわかった。
少年は繋がれた手を振り切って、走り出すと坂になっている田畑のあぜ道を駆け上がり、『早くおいでよ』と言いたくてワンピースの女性の方に振り向いた。だがその時少年の眼下に広がったのは、緩やかな田畑の景色ではなく、ごうごうと立ち上る紅蓮の炎だった。
空は血のように赤く染めあがり、小麦畑には燎原の火に包まれている。
そして少年の目の前には、燃え上がる炎の中に映る黒い人影。
その影は一歩ずつ少年に近づくと、見えるはずもない笑みが浮かび上がる。
少年は怖くなって走り出した。
走る、走る、走る。
肺に伝わる熱気も、地を蹴る足の痛みにも構わずに走っていると耳元で声が聞こえる。
「置いていくの?」
ぞっとするほど冷たくて優しい女性の声。その声を聞くと心臓を締め付けられるような痛みが少年を抱きしめる。
足に力が入らない。
息ができなくなった少年はもつれるように地面に倒れると、目の前が闇に染ってゆく。
遠くでなにか叩く音が聞こえてくる。
「……ス……ロス」
(戸を叩く音……? あれ、俺さっきまで走っていて、まあいいやもう少し眠って……)
「クロス!」
部屋の外から聞こえた少女の声に、はっと目が覚めた彼は紅蓮の世界から覚醒する。
そこは燃え盛る平野ではなく、クロスと呼ばれた彼が住むんでいる板張りのこじんまりとした部屋だった。
寝ぼけ眼で寝台から起き上がった彼の周りには、足の踏み場もないように壺や木箱、巻物が狭い室内のそこかしこから顔を出していた。
そして今なお続く、部屋の戸を叩く音。彼は眠そうに部屋の外にいる人物に声をかける。
「ミリーか? なんだ?」
「あ、クロス起きた? ちょっと用事があるんだけど、入ってもいい?」
「ちょっと待てろ」
脱いだ服はどこだったか。
部屋をぐるりと見回すと近くの木箱の上に投げてあったシャツを拾い、軽く埃を払うと頭からすっぽりと被り、ベッドの隅に投げてあったズボンを手に取る。やがてある程度彼は身だしなみを整え終わると、部屋に備え付けてある鏡を見やった。
そこに映っているは中肉中背の一人の青年。
ボサボサの黒髪に、うっすらと隈のついた虚ろな黒い瞳。加えて日に当たってないような生白い肌が不健康そうな印象を与えている。
「気持ち悪い、吐きそう……。毎度のあの夢には流石に慣れたけど、寝起きの気分の悪さはどうにもならないな」
体の内から立ち上る吐き気をなんとかごまかすと、部屋の隅にある水瓶から桶に水を汲んで顔を洗う。
両手で頬をパシリと叩くと少しはまともな顔になった気がする。気分を整えたら鏡を見ながら軽く髪を撫で付け、欠伸を噛み殺す。
鏡の傍に放っておいた布巾で顔を拭きながら壁から生ている傘の大きなキノコを見た。このキノコ、時告げダケは一定時間ごとに色が変わるので村では時刻を図るために使われている。
その時告げダケの赤い色合いからしていまは朝方、それも日も登ってない時間だった。
最後に鏡の前に置いてある銀の光を放つ胸当てを左胸に着けて留め具を締める。これでよし。
「いいぞ」
扉を開けて一人の背の低い少女が入ってくる。
黄金色の短い髪に翡翠色の瞳、横に伸びる尖った耳。服装は狩猟用の革鎧一式。
彼女の名前はミリアリア、村でよく狩猟や薬草採取に一緒に行く少女だった。
「おはよう、クロ……」
一歩部屋に入ってくるなりすぐ出てった。部屋の外からむせ返る音が聞こえる。
「なんなの? この刺すようなキツイ匂い……」
鼻を摘みながら涙目で部屋に入ってくる。
「おばば様から頼まれた薬の調合が終わってないんだ。しばらくはこの匂いは続くと思う」
「よくこんな匂いで寝てられるね」
「慣れだな。それで、用事は?」
「う、うん。昨日の夜に川に仕掛けた罠を取りに行くのに付き合ってほしいんだけど」
「わかった。支度していくから先に村の出口に行っててくれ」
「早くね~」
彼女は匂いから逃げるように素早く部屋を出て行った。くしゃみの音が聞こえる。
「さて、と」
クロスは荷物の山に埋まっていたブーツを履きベルトを締め革鎧を着ると腕に篭手を付ける。
棚から巻物を四本と黒曜石の短剣を取り出しベルトに差す。
背嚢を背負い、暗がり羊の毛で編んだ愛用の漆黒の外套を羽織る。最後に顔をすっぽり覆える木製の仮面を懐に忍ばせて、準備完了。
部屋を出ようとしたところでふと、装備の匂いを嗅いでみる。
「……そんなに臭うか?」
『そう思うのはお前だけだ』
突如クロスの頭の中に、しゃがれ声で非難めいた言葉が直接伝わってくる。
上着の襟首から手のひらサイズの褐色のトカゲが這い出てくる。頭から生えた後ろに反りがある一対の角が特徴的だ。
「イグナシオ」
『ワシも鼻はいい方ではないがあの部屋を見ていると思うところはあるぞ。忙しいのはわかるが、あとで片付けておけよ?』
「わかった、わかったから」
部屋に散らかっているガラクタの山を崩さないように慎重に足を運ぶと、やっとの思いで扉の前に辿り着く。
扉のノブを捻って木の軋む音を立てながら扉を開けると、クロスは自分の住処である小屋から外に出た。
そしてゆっくりと体を反らし両手を掲げて固くなった体を伸ばす。
目の前に広がる暗闇から漂う、いつもと変わらないじめっとした冷たい空気を肺に取り込むと、クロスは振り向いて扉を閉め《結びの印》を描いて扉を施錠する。
「ーー行くか」
* * *
この村、隠れ里ヴィドヘイムは暗い。
それは比喩的な表現ではなく、太陽の光がほとんど降りてこないからだ。
村の中心には湖沼があり、その中心には村では神聖視されている大樹が一本だけ生えている小さな島。そして湖沼を囲むように巨大な木々が乱立している。
傍から見るとそれは島を囲む檻のようにも見えた。
湖沼を囲む木々は、地面から見上げると首が痛くなるほどの背丈を誇り木々が競い合うように枝を広げ、何重もの葉が重なり日光をほとんど通していない。唯一、湖沼の中央の島だけが上空からの日光を浴びることができる。
この村の住人は地面に居を構えず、巨大な木々に足場を組み家を建てて橋を渡し住居としている。
家々のあちころには光を発するコケやキノコ、マナを通すと光りだすクリスタルなどが配置され人が住む分には十分な光量を得ていた。
そんな村の外縁部をクロスは歩いている。
歩くたびに足場に組まれた木材がコツコツと軽い音を出してる。
時折、マナが空になった照明結晶の燭台を見つけると、暗く沈んだ色合いの結晶に手のひらをそっと触れてマナを通し、柔らかな明かりを一つずつ灯してゆく。
まだ日が昇っていない時間だが、もう既に村の住人の姿があちらこちらに見て取れる。
しばらく歩いていると村の出口が見えてきた。そこにはミリアリアの姿があり、村の門番と話をしているようだ。
「ミリー!」
彼女はこちらを向くと手を振ると駆け寄ってくる。
「クロス、遅いよ!」
「悪い……、門番の人と何話してたんだ?」
当の門番はこちらを一瞥すると、なんの表情も見せずに警備に戻っていった。
「もうすぐ精霊祭だねって。今年はお姉ちゃんが《送り人》をするんだよ」
「ミレイナが? そうか、おばば様は引退するって言ってたしな。……どんな格好するんだろう」
「……むぅ」
ミリアリアが面白くなさそうに声を上げる。最後の一言が気に入らないようだ。
「そ、そんなことより、ほらなにか言うことがあるんじゃない?」
そういうと彼女は胸を張る。
彼女が何を言ってもらいたいかは明らかだったが、あからさまにその言葉を要求しているその様にクロスは頬を引きつらせる。
「えーっと、ミ、ミリーも踊るんだろう? たのしみだなー」
「……なによ、その感情の篭ってない感じは……。いーもん、お姉ちゃんなんか忘れるぐらいキレイになるんだから」
クロスが頬をかきながら明後日の方向に目を向けていることが気に入らないようで、ふんっと言って背を向けてしまった。
「悪い……。でもどっちにしろ近くでは見られないさ。祭事中は島の周りはマナが濃すぎて俺は近寄れないから」
その言葉でハっとしたのか彼女は肩を落とす。
「ごめん」
「いいよ、遠くでも見られるし。……それにほら、ミレイナよりキレイになるんだろ? 楽しみにしてるよ」
「……! うんうん、最初から素直にそう言えばいいのよ」
どうやら機嫌は持ち直したようだ。
「さて、そろそろ行こうぜ。帰ったら部屋の整理と調合地獄が待ってる」
「ふふふ、そうね。行きましょ」
* * *
村の外も村の中と同じように木々に足場が組んであり、クリスタルの燭台が暗闇の道中を照らしている。
途中、光を放ちながら飛ぶ虫、ヒカリツヅラが地上の付近をふわりと飛んでいたのが見えたが、一瞬、何かを潰すような音が聞こえてヒカリツヅラの姿が消えてしまう。どうやら、地上にいたなにかの獣に食べられたようだ。
二人の歩く足場の下はなにが潜んでいるか分からず危険なため、決められた箇所以外では地上を歩くことは禁止されている。
そのまま歩くこと時告げダケが一色変わる頃、目的の川が近づいてきた。
「ミリー、先に俺が降りる」
「わかった。気をつけてね」
彼は足場に下げてあるロープをゆっくりと伝い地上に降りると、周囲を見渡し耳を澄ます。
……どうやら危険な獣が近くにいることはないようだ。
安全を確認すると指笛を軽く吹く。それに答えて指笛が聞こえるとミリアリアがするするとロープを伝って降りてきた。
「おまたせ、それはそうとクロス」
「なんだ?」
「あなたのそのマント、やっぱり臭うわ。洗ったほうが……」
彼女の鼻摘み声がクロスの胸に深く刺さる。
「わかった! わかったからっ! 魚を取ったらそこで一緒に洗うよ。それいいだろ?」
「そんな軽くすすいだけじゃ臭いが取れるわけないでしょ? そんなんじゃスリエラさんが可哀想だよ。ほら、スリエラさんも何か言ってよ」
するとクロスの着ている漆黒の外套がざわりと揺らめくと、穏やかな女性の声が聞こえる。
『わたくしは今のままで構いませんので、どうかそのあたりで許していただけないでしょうか』
「またそう言ってクロスを甘やかすから、いつまでも散らかし癖が直らないのよ。スリエラさんからも厳しく言わないとダメよ!」
『畏まりました。以後はそのように致します……』
「……もう勘弁してくれ」
ミリアリアがお叱りモードでのしのしと進む道を先導して、その後ろをげんなりしたクロスがついてくる。
周囲は明かりになるものも少なく、ほぼ闇に包まれている。
先程から警戒心が緩みっぱなしの二人だが、森の暗闇で道を見失うということはなかった。
二人の育ったヴィドヘイムの村は暗闇の中にあるために、そこに住まう彼らは、非常に優れた夜目を持つため、僅かな明かりさえあれば暗闇は障害にならない。
そして森の中には光を放つキノコや虫など、光源は十分に存在していたため二人が歩く分には何も問題はなかった。
そのまま少し歩くと、二人は目指していた川に辿り着いた。
この辺りの川は流れが緩く、罠を仕掛けるにはちょうどいい具合にヒカリゴケが群生して辺りを淡い緑の光を放っている。
二人はミリアリアの先導で魚用の罠を仕掛けた場所に進んでいく。そうして歩いているとミリアリアが不意に何かに気づいたように走り出した。
クロスが追いかけると彼女は既に川の中に足を踏み入れており、素っ頓狂な声を上げていた。
「どうした?」
「見てクロス、この罠壊されている!」
クロスも川に入り罠を確認する。
見るとそこには細い木を組み合わせた罠が仕掛けてあった。しかし魚が入る場所の木材に穴が開いていた。その痕跡はまるで強引に中の魚を取るために開けたように見える。
「せっかく苦労して作ったのに……。もう、誰! こんなことしたのは!」
「……妙だな」
苦労して作った罠を壊されて憤慨するミリアリア。そんな彼女をよそにクロスは呟く。
「クロス?」
「ミリー、この魚の罠って村の人間なら誰でも作れるよな?」
「そうね。狩猟のやり方で最初に教わるものね」
「だろ? だったらこんな罠を壊すなんて真似しなくても魚は取れるはずだ」
「うーん……。獣が魚欲しさに壊した、とか?」
「それだったら爪で引っかいた痕とか痕跡が残ってるはずだが……、考えててもしょうがない。次の罠の場所に行こう」
二人は別の罠の場所に移動するとそこには罠にかかった魚がいた。それを見たミリアリアはほっと胸を撫で下ろす。
その後も何箇所か魚を回収して回ったが、結局罠が壊された場所は最初の一箇所だけだったようだ。
そろそろ帰ろうか。そんなこと二人で話しているときことだった。
森の奥から地響きのような音が断続的に聞こえてくる。
その音を聞いて二人は顔を合わせると、懐から木製の仮面を取り出し顔に嵌め、音のする方向へ走り出した。
音から察するに大型の獣の足音と思われるが、場所が悪い。
この森には大型の獣は確かにいるが、その多くが自分の縄張りを持っておりそのほとんどがそこから出ることはない。
稀に自分の縄張りから出ることがあるが、そのとき他の獣に縄張りに侵入されると、侵入者を排除しようと大暴れする。
そうなると周辺の森が荒らされ、連鎖的にほかの大型の獣達も暴れて出してしまう。
そんな事態を防ぐために、村でははぐれた大型の獣を見つけた場合、速やかに元の住処に誘導することが決められていた。
だが、走った先で見たものは二人の予想を超えるものだった。
それは、人の姿に酷似していた。
薄い青色の皮膚に全身を覆われ、異常に発達した筋肉に持つ上半身。
それに反比例したようにまるで小枝を思わせるほど細い下半身。
歩くときはその巨大な拳を握り締めて地面を歩んでいる。察するに下半身はあまり使われてないのだろう。
そして特徴的なのがその頭。
人間の頭を縦長にして頭髪や目や耳、鼻は無くあるのはのっぺりとした顔に大きな口、その口からは鋭い刃物を思わせるギザギザの歯が生え揃っている。
遠目ではあるが体はかなりの大きさに見える。人の三倍はゆうにあるようだ。
クロスとミリアリアは草陰からその巨体を見守っていた。
「ねえクロス、この森にあんなのいたっけ?」
ミリアリアのその間の抜けた言葉に怒鳴りそうになるが必死に声を抑える。
「いるわけないだろう! あんなのがいたら大騒ぎだ。いずれにしてもあいつがなんなのか突き止めないと。ミリー、お前は村まで走ってこのこと知らせてきてくれ、何かあったら木小人で連絡を」
ミリアリアはその言葉に頷く。
「来て、ウルビィ!」
彼女の言葉と共に輝く銀の体毛をした大きな狼、風精霊の群狼ウルビィが一陣の風と共に姿を見せる。そして間の悪いことにそれと同時に、青の怪物がこちらを振り向き、突進してくる。木が体にぶつかってもお構いなしだ。
「やばい、こっちに来た! ミリー行け! ここは俺が時間を稼ぐ!」
「ええ! クロスも気をつけて!」
ミリアリアは銀の狼に跨って駆け出すが、青の怪物はミリアリアを一向に追い続けている。
『あの様子、どうやらあの化物は群狼のマナに惹かれてるようじゃ』
イグナシオの声が頭に響く。
「てことは、あれも精霊の一種なのか!?」
『馬鹿言え、あんなゲテモノが一緒なわけなかろうが!』
「だよな。……ってことはイグナシオ?」
『仕方ないのう』
クロスは周囲の木々を巧みに躱しながら怪物と並走するが、向こうのほうが速いこのままだと追い抜かれる。だが、風の精霊たるウルビィに惹かれるということは同じ精霊なら引き寄せられるということだ。
「頼む、イグナシオ!」
火精霊、火蜥蜴イグナシオはクロスの頭の上へよじ登り、その口腔を膨らませ、闇を引き裂く紅蓮の炎を吐き出した。
驀進する炎は、青の怪物を急襲しその巨体を吹き飛ばす。
「悪いが、ここで遊んでいってもらおうか」
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