3話

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3話

無事に気になったグミを買ってコンビニを出て、マンションへたどり着いた。もうつけてくるような足音は聞こえず、とりあえず一安心だ。 ポストを確認して、入っていた広告を抜き取る。我が家のマンションには、残念ながらオートロック機能はない。部屋が綺麗で広い割に安いのでここに決めたものの、オートロックあるマンションへの引っ越しは結構真剣に考えたいところだ。不動産屋さんに聞いても治安はいいって話だったし、いいかなと思っていたのだけれど、今日みたいなことがあるとどうにも不安を煽られる。 エレベーターの▲ボタンを押した。結構上にあったらしいエレベーターが、重たいモーター音をたてながら下って来る。 どうしようかなぁ。なんかもうほんとにお家でのんびりデーにしちゃおうかなぁ・・・。 張り切って定時あがりして来たんだけど、どうにも疲労感がすごい。寝不足に加えて、週末という疲労が溜まりまくった状態に、追い打ちの恐怖で異様に疲れてしまった。 やっぱり揚げたてのコロッケは買ってくるべきだった気しかしない。でももう戻る気力なんてない。 既に駅に降り立った時の、漫画を読み漁るぞ!という意欲は欠片も残っていなかった。 ぼーっとしながら待っていたエレベーターが、ぽん、という軽やかな音を立てて目の前に到着した。玄関ホールの灯りよりも白く明度の高い蛍光灯のおかげで、エレベーターの内部の様子がよく見える。 がこっ、と多少の年代を感じさせる音を立てながら開いた片開きの自動ドアの向こう側は、5人も乗ればぎゅうぎゅうの狭い空間だ。少し草臥れた雰囲気のエレベーターで、庫内の壁に貼り付けられた毛足の短いカーペットのような壁紙は、隅の方が剥がれ、くるんと丸まっている。 が、エレベーターがあるというそれだけでありがたい。マンションの設備が多少古かろうが、部屋自体はリノベーションも入っていてとても綺麗だし、最近宅配ボックスも設置された。本当に、オートロック問題さえなければ、何の不便もない、すごくいいマンションなのだ。 この後の過ごし方を悩みながら、グミの入ったコンビニの袋をぷらぷら揺らし、パンプスを引きずるようにして庫内へと乗り込んだ・・・――――瞬間だった。 がんっ! 「ッッ!?」 「待って待って!オレも乗るから!」 閉じかけの扉が、荒々しい音を立てて押し留められ、状況が理解できないまま驚愕に固まった私と同じ空間に、男が乗り込んできた。 灰寺だ。 え・・・。 え・・・? ダメだ意味が分からない、これどういう状況、なんで目の前にこいつがいるの。 意味が分からないなりに、どうしようもなくよろしくない状況である事だけは本能が察知して、さぁっと血の気が引いていく。血の気が引くなんてことは生まれて初めての感覚だったが、全身の体温が急激に下がり、なるほどこれが「血の気が引く」ってやつか、と妙に納得している変な自分がいた。 血が引いたせいなのかなんなのか、立ち眩みのような感覚に襲われる。恐怖のせいか、全身の毛が逆立っていた。 エレベーターをこじ開けて入って来た灰寺は、満面の、あまりに濁りのない、場違いに陽気な笑みを浮かべて私を見下ろし、そしてちらりと横目で階層を表示するボタンを確認すると、何の迷いもなく()()()()()のボタンを押した。 「ぁ・・・、」 冷や汗が首筋を伝って胸の谷間へ伝い落ちていく。 エレベーターが動き出す。その揺れに少し足がふらついたが、どうにか立て直す。 知られている。私が住んでいる階を知られている。部屋も?何故?今日が初めてじゃないって事?もしかしなくても今まで感じていた視線もこいつなのか・・・? 脳が空回る。震えを誤魔化すために、爪が食い込むほど強く手を握り込んだ。 「何の用ですか」 思ったよりしっかりとした声が出て安心する。少なくとも掠れても、震えてもいなかった。我ながら事務的で、硬質な声音だ。 「ぇえ?だってもうずーっとオレがデート誘ってやってんのに、断るばっかりだからさぁ。今日もほら、予定あるなんて言ってたのにこうして帰って来てる訳っしょ?だからぁ、そんなに照れちゃって行動できないならもうオレから動いてあげよっかなぁって!気ぃ引きたいのは分かるけど、やりすぎると相手に勘違いされちゃうぜ?」 言われている意味を理解しようと、数回頭を巡らしたが、結果、理解できない事を理解する以外に道がなかった。 ただ、確信もした。 こいつは、灰寺という男は、想定の数倍やべぇ奴だ。 すーっと細く、でも深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。 思いのほか頭は冷静だ。いや冷静ではないか。気を抜いた瞬間叫び出しそうなので、必死で思考を回して冷静さでパニックを抑え込んでいるような危うい状態だ。多分。とにかくそんな感じだ。 なんでもいいけど警察に連絡入れたい。今すぐ110をプッシュしたい。でもスマホはバッグの中だ。しかもパッと出てくる感じじゃない。ちょっとごそごそいないと出てこないだろう。そんな事をさせてくれるだろうか・・・くれないだろうな。そもそも、警察に電話とか、逆鱗に触れそうで怖すぎる。 「いえ、予定は普通にあります。ただ家へ帰って着替えをしたかっただけです」 「えー!また強がり言っちゃって!まあいいや。今日はその予定ドタキャンしちゃおうぜ!オレがせっかくここまで来てあげたんだからさ」 「っ!」 おチャラけた口調で喋りながら、灰寺はやけに自然な動作で、ポケットからカッターナイフを取り出した。今度こそ悲鳴を上げそうになったのを、ぎりぎりつばを飲み込んで抑え込む。やばい。やばいやばいやばい、怖い。手を握りしてめいて尚、腕が震えている。 今にも頭が真っ白になりそうだ。 どう考えてもとんでもない要求だ。普通にあり得ない。でもじゃあ、ここでその正論を言えるほど私が強いかと言えば、残念ながらそんな事はなかった。 「・・・分かりました。話す時間は設けるので駅前のファミレスにでも行きましょう」 「いいよいいよ!もう家、すぐそこなんだし!そっちの方が楽っしょ!」 いいわけねぇだろイカれてんのかてめぇ。 いやイカれてるか。全然イカれてるわ。ふざけんなよ。 だめだ。私だってそれなりに社会人をやってきているのだし、厄介だなと感じる人間とは相対してきたことがあるはずなのに、イカれ具合がズバ抜け過ぎていてどうしたらいいのか全く分からない。もう心臓が破裂しそうなくらい早く走っている。ただもう刺激しないことしか考えられない。思考が空回る。 どうしよう、どうしよう、怖いどうしよう。 部屋まで行って、そしたらどうなるんだろう。普通に犯されるのか?それで済むかな。監禁?いやでも普通に殺されそうな気がする。いつ死んでもいいんだけどなんて思ってはいるけれど、流石にこの死に方は嫌だな・・・。 現実逃避気味な思考が流れだす。 能天気なぽーんという音が庫内に鳴り響く。私の住む階に到着してしまったらしい。 開いた扉が閉じないように立った灰寺が、慇懃な仕草で私に外へ出るよう促した。ちらちらと煽るようにカッターナイフを弄んでいる。あれを弾き飛ばす事ってできるのかしら・・・。どうだろう。できる気もするけど、こんな震えた手でそんなことできるかがかなり怪しい。それで思い切りざっくり切られるのも嫌だ。 叫ぶというのも考えたけれど、私の住んでるマンションは単身者向けだ。金曜日のこの時間、人が部屋にいる可能性はかなり低い。その低い可能性に欠けて叫ぶか・・・。それも結局、思い切りざっくり切られる可能性の方が、高い気がしてしまう。 「バッグちょうだい!オレが鍵開けてあげる」 「・・・・・」 なにが()()()だよ、と思うものの、もうなんか、逆らう事を考える事すら面倒になって来た。 いっそ、これこそ運命なのでは? あの時私を守って死んでしまった夏樹(なつき)と同じような痛みを味わって、ここで死ぬのが運命なのかもしれない。 死んだら夏樹に会えるだろうか。夢であの日の、夏樹が死んだ瞬間ばかりを見るけれど、もういい加減、違う表情を思い出したい。真夏の日差しみたいに笑う夏樹が見たい。 恐ろしい事に、どんなに大切に思っていたって記憶は薄れていくのだ。どんなに動画を見返しても、どんなに写真を見直しても、私と彼が生きていた時間はじわりじわりと離れて行く。時間薬とはよく言ったものだ、利いて欲しくなくたって作用する。もう私がはっきりと思い出せるのは、繰り返し繰り返し見る、あの夢の、夏樹が死ぬ瞬間の事だけだ。 嗚呼なんか、もうこいつに殺されるのでもいい気がして来た。 こんなしょうもない男に殺されるくらいなら、夏樹のお母さんに殺させてあげたかったけど、こればっかりはもう仕方ないよな。連絡先も分からないし、もはや居場所も分からないし。 しかしこんなくそ野郎にレイプされるとか嫌すぎるな。こっちが適当に見繕ってワンナイトとかで遊ぶ分には全然いいけど、無理やりヤられたい訳がない。 ならもう、いっそここで暴れてとりあえず殺されるのが一番手っ取り早いか?いやでもな・・・中途半端に怪我する位なら、さっくり自分で死んだ方が楽そうなんだよな。家入ってすぐにキッチンの包丁を取って首をばっさり切るとか?できるかな。ビビっちゃわないか少し不安だけど、犯されるよりマシだしな・・・。 がちゃッ ちょっと俯いてどうやって死のうかを考えながら歩く。ふと子どもの頃父親に見せられた、死刑囚が電気椅子へ向かうまでの道を名付けられた映画を思い出した。ラストのあの、永い未来をうかがわせる絶望感が堪らなかったよな・・・。私は今すぐにでも生が終わりそうだけど。それも、目の前にいるのは、死刑までの道のりをなるべく平穏にと同道してくれる警官ではなく、今にも私を殺しそうなイカれたクソ野郎だ。ついでに素敵なドブネズミの相棒もいない。 「えっ」 どういう訳か、我が家の玄関ドアを開けた灰寺が躊躇いの声を上げた。なんだ、と思い視線を上げる。 「おかえりー!」 「え・・・?」 図らずも、灰寺と同じ母音だけの疑問符が口から飛び出てしまった。 あまりに陽気な、そしてもう聞くはずのない声が響き、それと同時に、ドアの隙間から男がひょいっと顔を出したのだ。 外跳ね癖の強い髪が、見覚えのないオレンジ味の強い茶色に染まっている。ちょっと吊ていて、笑ってると堪らなく人懐っこく見える目がこちらを見ていた。高校に上がってから急に伸びた身長は180センチと(のたま)っていたけれど、本当は179センチで止まったのを知っている。 「あん?誰やねん。あんたん友だち?」 小学5年でこちらへ引っ越してきたくせにに、彼はそれからずっと、ずーっと、死ぬまで関西弁のままだった。 「え、あ・・・え?」 「ちょ、おま、何持ってんねん!そんな危なっかしいもん外で振り回すもんじゃありません!」 お母さんみたいな口調で、彼は――――夏樹は。当たり前みたいに事態を飲み込めない灰寺からカッターナイフを取り上げて、そしてその刃をかちりかちりと納めて行きながら、陽気な雰囲気を壊さないまま首を傾げた。 「んで、とりあえず警察呼ぼか?」 「お、ッ、男と住んでんのに誘惑してんじゃねぇよこのクソビッチが!!」 「っ、!」 「おっと」 どん、とかなりの強さで私の体を弾き飛ばした灰寺は、私のバッグを放り出し、どたばたと慌てた様子で駆けて行く。エレベーターを待つ時間すら惜しいのか、階段へ続く扉をこじ開けて視界から消えた。その後も、間抜けで大きな足音が徐々に遠ざかっていく。 なんだかカートゥーンアニメの登場人物みたいに、滑稽で大げさな動作と音だった。 「ったく、なんやねん。惚れた女ならもうちょい丁重に扱えやクソが」 「・・・」 弾き飛ばされた私を、当然のように抱き支えたのは夏樹だった。感触もあれば体温も、鼓動すら感じる。 これはなんだ。 なんだ・・・。 なんで、夏樹が・・・だってぐちゃぐちゃで・・・もう死んで・・・。 ・・・。 嗚呼もう、なんだっていいか。 これが夏樹なら、なんだって。 「・・・夏樹」 頬が冷たい。視界が霞む。声が揺れる。いやだ。ちゃんと見えないのも、ちゃんと呼べないのも許せない。 でもただ、もっとちゃんと、彼の存在を実感したくて。 「なつき」 しがみつくように、私は彼に抱き着いた。
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