運命の一冊 「よろしくメカドック」

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中学生の頃に「よろしくメカドック」という漫画がありクルマに興味を持った。日本のスポーツカーをチューニングすることで、よりパワーが上がり速くなる。これが面白かった。主人公はその後、自動車レースにも自らが仕上げたクルマで参加する訳だけど、これがなかなか面白かった。設定が現実から離れていたこともいくつかあったけど、とりあえずはそれでいい。日本のスポーツカーをチューニングすることでかつてのスーパーカーブームの頃のフェラーリやランボルギーニカウンタックといったスーパーカーよりも速くなるのかな?と興味が涌いた。チューニングはいいけど、やるなら工賃もかかるし、時間もかかることも知らず、パーツ類も高価であることをおこちゃまだから知らなかった。 「よろしくメカドック」に影響を受けた人は少なくなく、作者の公認でメカドックというガレージを開業した人もいる。 1985年にインターテックというレースがあることを知る。これはグループA規格の自動車レースであったが、参加車両がセリカXXやスカイラインRS、三菱スタリオンといったスポーツカーでよろしくメカドックに通じるものがあった。ちなみに三菱スタリオンは記念すべきマイカー第一号になる。1985年のインターテックは確かフジテレビが放送したと思ったが、レース内容はボルボの独走。それも1位2位の独占。3位は日本のレーシングチームが走らせていたBMW635CSi。国産車は三菱スタリオンが4位で、5位がスカイラインRSだった。なんであんなボルボがトップを独走するのか不思議だったが、あちらの海外勢にはノウハウがあった。1986年のインターテックも優勝はボルボだった。それでも日本車の三菱スタリオンが予選で2位に入り、決勝では日産スカイラインRSが3位と4位に入り気を吐いた。日本車がグループAで旋風を巻き起こすのはスカイラインGTR。まだまだ先の話である。 1985年のインターテックで自動車レースに興味を持った僕は、「どうすればこのグループAに出れるの?」「どうすればレーサーになれるの?」といったことを調べるようになる。当時はネットなんか一般的にはない時代である。とりあえず本屋で立ち読みして、場合によっては買った。ベストカーの別冊の「レーサーになるにはBOOK」だか入門書があって、何回も読み返した。これは大井貴之氏がEP71レースに参加するという記事があったからベストカーで間違いないと思う。とりあえずライセンスを取ればレースには参加できると、あとはお金だなと。そのうち、オートスポーツという雑誌の存在を知った。そして中嶋悟氏が若い頃にレーシングカートをやっていたことを知る。他の一般的な自動車雑誌を読んだりと遠回りもしたけど、ようやく自動車レースの専門誌にたどり着いた。 全日本F2レースのテレビ中継があり、それを見るようにもなった。中嶋悟、星野一義といったトップクラスのレーサーたちが参加していた。そして1986年はかなり印象的な1年だった。キャビンレーシングの出現である。 キャビンレーシングの他にもレイトンハウスも出現していた。キャビンレーシングとレイトンハウス。これは大きかった。 キャビンレーシングは松本恵二氏を起用し、F2とGCにフル参戦し、F2は開幕から2連勝。GCでも第3戦で優勝し、タイトルの可能性もあった。なんといってもキャビンレーシングの方はテレビCMが強いインパクトがあった。MALTAのサックスに合わせて激走するF2マシンのCMはなんといっても格好がよかった。 一方のレイトンハウスはF2とGCに当時の若手ナンバーワンといわれた萩原光氏を起用。活躍が期待されていたが、菅生で行われていたグループA仕様のベンツのテスト走行中に事故死してしまう。その後、レイトンハウスはF2にはイタリア人のイワン・カペリを起用。3回の参戦のうち、2回は2位表彰台と3位表彰台となった。カペリが参戦できない鈴鹿での第7戦「鈴鹿グレート20 2&4レース」ではベテラン関谷正徳氏が出走。6位入賞を得た。また残りのGCの第3戦と最終戦は関谷正徳氏が出走した。レイトンハウスの快進撃は止まらず、1987年にはイワン・カペリと共にF1に進出する。 1987年からフジテレビがF1中継を始める。この頃、F1ではホンダエンジンが搭載された、ウイリアムズ・ホンダが旋風を巻き起こしていた。そしてロータスから中嶋悟がF1に参戦と記念すべき年となった。 1987年は個人的にも大きな動きがあった。僕がモータースポーツに進出するのだ。これはステップアップシステムというもので、オートスポーツに記事と広告が載っていた。とりあえずレーシングカートやFJ1600に乗れるが、これはレンタルマシンだ。とはいっても普通の高校生であるから、参加は夏休みとか春休みとかしか参加できず、それ以外はアルバイトをして金銭を稼いだ。これで大きな成果はなかったけど、いい思い出だとは思う。 1987年ならF3にラルトRT31で参戦、グループAならスカイラインRSで参戦と免許もないのに妄想が止まらない。 1988年も同じような状況だった。1989年はステップアップシステムとライドオンフォーミュラーと組織が分かれてしまったので後者のライドオンフォーミュラーに参加することにした。ライドオンフォーミュラーはFJ1600だけでレーシングカートはない。ライドオンフォーミュラーも参加は夏休みや春休みだった。ライドオンフォーミュラーは1990年には参加回数が増えた。高校生ではないからだ。私生活の方で色々あって専門学校への進学をしたものの、結果的にこれは失敗であり、専門学校は辞めてしまった。その後、バイク便でアルバイトをして様子をみることにした。そのバイク便ではアルトワークスカップに出走することができた。成績はよろしくなかったが、レースデビューである。ライドオンフォーミュラーには1991年まで参加していたが、これを最後に参加は取りやめる。これはナンバー付きのレースのサンデーレースに参加するためだ。 お金がないのにレースするにはどうすればいいのか?マシンはレンタルにするとか装備を中古で購入するとか検討していた。レーシングカートやFJ1600に乗るにもレーシングスーツを着て乗りたいが、当時でも物によっては20万円はした。そこで当時高校生の僕はトムスのチャリティオークションに目をつけた。ここで現役レーサーが使用したレーシングスーツやヘルメットがオークションに出されるのである。トムスのガレージに出向いた僕は関谷正徳氏のレーシングスーツを落札した。グループCによる耐久レース仕様である。当時の価格で22000円だっただろうか?ヘルメットも欲しかったが、無理だった。その後、1988年には日産のイベントで鈴木亜久里氏のF3000仕様のレーシングスーツが出に入った。こちらは当時の価格で30000円だっただろうか。ヘルメットは当初はホームセンターで買った20000円だかの2輪用のヘルメットで参加していた。今なら、ヤフオクやメルカリを頼りにしただろうが、当時はそんな物はなかった。 その後、マシンの方でも当時始まったザウルスjrに参加のために相談したこともあったが、マナティMk6という古いFJ1600を押し売りされそうになった。結論としては「いらない」と。その後、ナンバー付きのレースで行われるサンデーレースに魅力を感じていたから、そちらに参加することにしたけど、特に何の思い入れもないマナティMk6を購入したところでどうなっていただろうか?処分にも困っていたのではないか?F3マシンのラルトRT30とかRT33、RSマシンのオスカーSK90あたりだったら話も違っただろう。 ナンバー付きのレースで行われるサンデーレースにインテグラタイプRで参加していた。普段の足としても十分に使えたし、新車で230万円で購入して3年乗って145万円で売却できた。これは今でも正解だったと思う。 また皮肉にもこのインテグラタイプRの辺りから、もしかするとスカイラインGTRのあたりからチューニングカーの事情も変わってくる。車を改造すれば、その時点で保証は切れる。しかし、最初からインテグラタイプRなんかは速いのだ。しかも新車で買えば保証も付く。中古で買っても店によっては保証が付く。そしてインテグラタイプRは特に改造しなくても各地のサンデーレースで大体10位くらいには入れる。そうなると他のシルビアなどで参戦していた人たちは「何あれ!?」となり、かなりの人たちがインテグラタイプRに乗り換えた。 最初から改造されているコンプリートカーという物があった。最初から速いならコンプリートカーでいいじゃないかと。クルマによっては保証さえ付く。僕自身、最近はオプションとかいったチューニングカー雑誌はまるで見ない。 少し前にインターテックでのボルボの激走を語ったけど、その速さの秘密は海外勢のレーシングカーの豊富なノウハウだった。例えばこんな話がある。1986年当時のグループCカーによる耐久レースで国産メーカーではトヨタ、日産、マツダが参戦していた。当時のグループCカーの最強マシンといえばポルシェ962Cとポルシェ956。国産マシンがポールポジションを獲るが、最終的にはポルシェが優勝というケースがほとんどだった。国産マシンはレースごとにエンジンを乗せ換える。あるいは予選だけのスペシャルエンジンまで存在していたと記憶している。度々エンジンを乗せ換えなければならない国産マシンに対して、ポルシェは1年間オーバーホールをしていなかったというでのある。シーズンが終わればようやくオーバーホールという訳だ。これはプライベーターとしても魅力的だろう。開発費にいくらかかるかわからない国産マシンよりも確実に勝てるマシンを金さえ出せば買えるのだから。これはグループAのBMWM3にもいえることでディビジョン2で常勝マシンとなり、国産マシンはディビジョン2から消えた。そのディビジョン2で常勝となったBMWM3はやはり1年間はオーバーホールをしていなかった。こちらもシーズン終了後にようやくオーバーホールという訳である。それでも常勝するというのはポルシェにしてもBMWにしても恐ろしいドイツ製品である。 それにしても自動車、それもレース関係には相当な金額をつぎ込んでしまった。もしあの時に今のインターネットがあったなら、今のWindowsのパソコンがあったのなら、他のやり方もあったのではないか?とは考えてしまう。 どうすれば自動車レースに参戦できるのか?費用はどうするのか?F3000やF3に参戦するドライバーに嫉妬したこともあるだろうが、そんなものはお門違いである。パソコンで2chを知り、色々と見てみると、ようやく事情が見えてくる。ほとんどの人たちは資産家の子供だったりする訳だ。例えば日本を代表するドライバーに上り詰めた某氏の実家はレーシングカートのサーキットの経営だったり、その経営母体は町工場であったり、さらに他のトップドライバーの某氏は奈良県で事業を手広く行っていた企業の御曹司だったりと、他にもトヨタ自動車の役員のご子息といった人物もいたし、また仕事は看護師という話であったはずが、実は名古屋の有名な中華料理店の娘だったとか中小企業の御曹司のご子息という人物は複数いた。これを見て、逆に妙に冷静になり、嫉妬というのも消えていった。 「そりゃ自分たちでお金を用意して、クルマなんかも用意して参戦しているのだから文句もいえないよね。」 また彼らの中には御曹司で金銭的に優位であるのは間違いなかったが、それでも優勝するなり結果を出しているのだから、なおさら文句もいえない。 F1ブームからモータースポーツブームとなりレーシングスクールなどもたくさん誕生したが、2chでその裏側、経営実態などを見ても、唖然とした。 当時のレーシングスクールも今ではほとんどが存在しない。モータースポーツはどうしても高額になるし、いつまでも続けられない。ブームも過去のものとなり、それは仕方がない。 借金してまで自動車レースにつぎ込んだ人たちもいただろうが、ほとんどは成功することなく消えていった。 当時のオートスポーツやレーシングオンなんかにも参戦の記事が出ていたけど、FJ1600で1戦で30万円だの50万円だの、書いていたかと思ったけど、今ならその50万円でフランスやイギリスに行けばF1に乗れてしまう。そうなるとバカバカしくなる。 やはり海外のレーシングスクールに行くという企画やらでパックツアーで98万円なんていうのもあった。でも今ならフランスやイギリスに行けばF1に乗れてしまう。 さてそのフランスやイギリスに行けばF1に乗れてしまう企画でも、イギリスでF1に乗れるレーシングスクールの1つはつぶれた。またフランスのF1に乗れるレーシングスクールに参加するツアーを組んだ代理店も日本に存在したが、現在はツアーは行われていない。 高校生の頃にバイトをしながらレーシングカートやFJ1600などに乗ってはいたが、あの頃に今のインターネットがあったなら、今のWindowsのパソコンがあったのならバイトはすれど、パソコンにつぎ込んでいたかも知れない。 また海外へ行けばライセンスがなくてもセスナで空を飛ぶこともできる。そちらにつぎ込んでいたかもしれない。 とはいえスポーツカーやレーシングカーに興味を持ったのは今でもモチベーションではある。 時代は変わり、フランスやイギリスへ行けばお金さえ払えばF1に乗ることができることも知った。今でもチャンスがあれば、そのF1に乗れないかと考えている。
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