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小学生の頃にトミーのぴゅう太というパソコンのパンフレットを手にした。一見ゲーム機のようだが、パンフレットの後ろの方にプログラムが書かれていて、「これを打ち込めばゲームができるぞ」と好奇心が高まった。ただし値段が59800円で当時の小学生にはとても手が出なかった。
ちょうど、この頃はちょっとしたパソコンブームだった。同級生が学校にマイコンBASICマガジンとかI/Oとか持ってきた。それでこれを組めばこんなゲームができるのかと。これはおもしろそうだと。ぴゅう太は忘れた訳ではないが、他のPC6001とかMZ2000とかにも興味を持った。ただし、PC6001でも本体だけで89800円。MZ2000に至ってはモニターやら一体型で218000円。とてもじゃないが、小学生には買えない。同級生はこれらのパソコンはどうしていたのかといえば、親御さんがこれらの高額なパソコンを購入して、仕事で使うなりしていたやつを、親御さんが外で働いている時に拝借していたようである。
近所のホームセンターにはNECのPC6001にPC8001、シャープのMZ2000とMZ700のデモ機があった。もう一台はナショナルのJR200というパソコンだった。当時のホームセンターはパソコンコーナーの横がプラモコーナーで、パソコンのデモ機に触れたと思ったらプラモコーナーに行って、当時流行っていたガンダムのプラモとか眺めて、しばらくしたらまたデモ機の方に行くとか、夜暗くなるまでグルグルと回っていた。今、思えばどうしようもないな。
そして、そのMZ2000だけど、平成に入り魔改造してWindowsで動くようにした人がいた。少なくとも2人。
そうはいってもMZ2000の筐体だけをPCケースとして活用して、中身はここ最近のマザーボードやらCPUにメモリといった内容だ。ただ一人は緑色のモノクロのモニターにこだわり、一人はフルカラーにしてしまった。しかし、どう見ても半田ごてを使用するとか、かなりの高度な技術が必要とされると思われる。
いくらMZ2000に思い入れがあるとはいえ、僕はそこまではできない。気に入ったPCケースに予算ややりたいことを考えてパーツを組むとか、ノートパソコンにメモリを増やすとかSSDを交換するとかそっちの方を重視する。
ホームセンターにパソコンがあると知ったのも当時の同級生の誰かに聞いたけど、そのうち「ダイエーの3階にもパソコンが置いてある」とやはり同級生の誰かに聞いた。見に行ったらホームセンターにないパソコンもあった。当時のダイエーのパソコンコーナーもすごかった。最初は3階の家電コーナーの一角だったのが、「これは売れる」と判断されたのか、1階の正面玄関近くに特設コーナーが設けられた。パソコンのデモ機の配置や関連商品の配置というかディスプレイも素晴らしかった。
ぴゅう太の件は触れたけど、タカラから出していたM5というパソコンもあった。これも59800円かな。
ぴゅう太とM5はキャラクターが似ていた。値段がそうだろう。それとカートリッジでゲームを提供しゲームで遊ぶコントローラーも付属していた。大きな違いはBASICだろう。
そして似たようなパソコンを売っていたトミーとタカラが今では同じ会社になってしまった。こんなことを当時、誰が予想したか。
さて昭和のちょっとしたパソコンブームについていろいろと書いたけど、ファミコンが発売されると急速にブームは衰退していく。パソコンは「これを組めばゲームができる」とか「プログラムを組めればゲームができる」と興味を持ったけど、ほとんどの人たちはプログラムを組めないのである。しかもマイコンBASICマガジンといった雑誌に載っているプログラムをパソコンに打ち込んだとしても、結局、打ち込んだところでミスがあってエラーが出る。その対応に追われてなかなかゲームができない。しかも前述の通りパソコンは非常に高価だった。ところがファミコンの本体価格は当時14800円。これにゲームが入ったカートリッジということになるけど、カートリッジは価格が3800円から4500円。プログラムは組めないが、いきなりゲームセンターと同等のゲームが家庭で楽しめる訳だ。パソコンにしか興味はなかったが、少なからず動揺はしていた。何しろ、カートリッジを入れるだけでゲームセンターレベルのゲームが家で遊べるのだろうから。そんな時でも「パソコンでプログラムを組めば遊べるから・・・・・」と高をくくっていた。残念ながら僕にはそんな能力はなかった。あれから40年以上たっただろうが、BASICもマシン語もいまだによくわからない。当時からスーパー高校生という存在はいて、マイコンBASICマガジンといったパソコン雑誌にプログラムをやたらと投稿する高校生がいた。これが森巧尚氏と高橋はるみ氏である。今のパソコンは大きく分けてWindowsかmacOSの二択だろうが、当時はもうバラバラ。例えば、PC6001とPC8001は共にNECのパソコンだけど、OSであるBASICは別物。互換性はなかった。当然、NECのパソコン用のプログラムは他のシャープやナショナルといった他のメーカーのパソコンでは使えない。他のパソコン用に手直しをした移植版と呼ばれる物があった。森巧尚氏と高橋はるみ氏はその後、複数のパソコンを所有し、それぞれのパソコン用のプログラムを発表していた。2人には原稿料や印税などの収入が発生していたというが、詳しい金額などは不明だ。
またマイコンBASICマガジンは、あのホリエモンにも影響を与えていたようだ。
「マイコンBASICマガジン ホリエモン」で検索すると色々と情報が出てくる。どうも採用されたゲームソフト1本につき原稿料は1万円で、税金で引かれて9,000円だったようだ。マイコンBASICマガジンは月刊誌だから毎月1回発売な訳だけど1万、2万では生活はできないけど、高校生や中学生の小遣いならまずまずか。森巧尚氏と高橋はるみ氏でもいいとこ一月に2本ではないかと思われるが、この2人なら他のパソコン雑誌にも投稿していたかも知れないし、個人的にパソコンの本を出してもいたし、印税とかもかなり発生していそうだ。
しかし、このパソコンやらネットの業界で森巧尚氏や高橋はるみ氏よりも後発のホリエモンがもっとも成功するとは、これも歴史なのだろう。
MSXはメーカーが違ってもプログラムは共通という今でいうWindowsみたいなパソコンだった。
MSXは当時としては画期的ではあったけど、結局、MSXつまりパソコンは高価だった。そして安価なファミコンがブームになっていた。ほとんどの人たちは手軽にゲームセンターそのもののゲームが楽しめるファミコンに流れた。当時の子供たちはパソコンの記憶なんかほとんどなくてファミコンの思い出しかないだろう。
それで皮肉なことにファミコンにもパソコンになるファミリーBASICとかいう後付けの商品があった。
ファミリーBASICは1984年だったか・・・・・。弟が持っていた。それだったらパソコンは買わないでファミコンにして、その後ファミリーBASICでパソコンにチャレンジして、プログラムの才能がないことを自覚してもよかったな。
あの時、こうしていれば・・・・というのは歳を重ねればよくあることである。結果的に1982年にパソコンに興味を持ったとしても、高価だったため手には入らない。そこで小遣いも何もいらないから貯金ということにして、中古でも手頃なパソコンでも出てきたら買うという親に相談した。パソコンは持ってなくてもマイコンBASICマガジンは毎月購入すことにした。これはプログラムが目的である。パソコンが手元になくとも記事を読んでは妄想を膨らましていた。特に妄想したのは自分がMZ2000やPC6001を手に入れて、次々とプログラムを打ち込んでゲームを楽しむ。そしてオリジナルのゲームを作り、マイコンBASICマガジンに次々と投稿し採用されると。結果的にどうにかパソコンを手に入れたのは半年後だったか1年後だったか。手に入れたのはコモドールVIC1001だった。確か本体価格で29800円だったか。これは在庫処分の特売品を秋葉原のツクモ電気で買った。しかし実は地元のダイエーでぴゅう太が29800円でゲームソフトが2本ついていた。当然、このぴゅう太でも全然よかったが、親はぴゅう太がただのおもちゃに見えたのか「やめなさい」といわれた。今、思えばぴゅう太でよかったかな?とも後悔の念がある。ぴゅう太を手に入れたとすれば「初恋の人と結ばれて」とちょっとしたロマンだったかも知れない。それともまた「VIC1001にすれば・・・・」とこちらでも後悔の念があったかも知れない。もっとも、そのさらに後にファミリーBASICが出てくる訳だが・・・・。ぴゅう太を強く推せばぴゅう太だっただろう。何にせよ僕は決断力がないおこちゃまだったのである。
それで少し前にPC6001とかPC8001とかの話をしたと思うけど、実は続きがある。
実は19歳の頃にPC6001やPC8001の後継モデルにPC6001MK2とPC8001MK2というのがあったんだけど、その後継モデルを2台とも手に入れた。それもタダで。
実は19歳当時、バイク便で働いていて、自動車レースにも参加していた。そこでその自動車レースの関係で筑波の方にも行っていて、そこの物流倉庫の片隅にPC6001MK2とPC8001MK2が粗大ごみ扱いで置いてあった。しばらく大きな動きもしなかったけど、ある日、現地のスタッフさん、確か所長だったかな?に聞いた。「あのパソコンは粗大ごみですか?粗大ごみならくれませんか?」と。そうしたら「いいよ」という訳だ。さすがに19歳ともなると、少しは決断力も行動力もある。それで家に持って帰ったら大きなダメージもなく使えると。そんな訳で、子供の頃のマイコンBASICマガジンはまだ捨ててなくて、童心に帰ってプログラムを打ちまくった。モニターはグリーンのモノクロだったけど、これは普通に使えた。ただし、当時のやたらでかいフロッピーは使えなかった。そこで渋谷の中古パソコンショップに行きデータ記録用のテープレコーダーを買った。1982年当時のパソコンのデータ記録はカセットテープが主流だった。これも何か子供心に面白かった。子供の頃できなかったことが19歳になって実現するとは、夢心地であった。あれから30年以上が経っているが、いまだにVIC1001、PC6001MK2、PC8001MK2は家にある。捨てられないのだ。はるか後に買ったWindows搭載のノートパソコンなんかは処分しているというのに。
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