最後の可惜夜

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最後の可惜夜

チョコリングのスナック菓子がわたしと彼、2人で食べる最後の食事だった。 *** マンションの駐車場に停まった白のセダン。運転席にいる彼と後部座席にいるわたし。 フロントガラスの形に切り取られた空は長い夜に飽き飽きしたように、わたしがここに来る前よりも明るい色を取り入れはじめている。 時間を知るための時計を見なくても、時は進んでいることがわかる。運転席と助手席の間の収納ポケットに彼が開けたチョコリングがあるけれど、袋の中に深く手を入れないと取れないくらい量が減っていて、あたしの胃が満たされるのと引き換えにチョコリングと時間が消費されていく。 大きく開いた袋口から甘いチョコレートの匂いが零れていた。 美味しいとわざわざ口に出すことはない。出さなくても、わたしと彼の間でチョコリングの味は共有フォルダーとして保存されている。もう何年の付き合いになるのだろう。 薬指に指輪をつけた右手でわたしはチョコリングをつまむ。彼は5本の指すべての爪が綺麗に整った左手でチョコリングを口に放り込み「急に悪いな」と今さら謝った。 さっきまで最近流行っているアニメの話をしていた。だからこそ、本題に移ろうとしているんだと思った。心臓がドコドコと急に存在を大胆に主張しはじめる。 それでもわたしは顔の表情筋をなるべく変えることなく「決めたの?」と右の奥歯で咀嚼しながら彼を見る。ルームランプが点いていない車内では、彼の表情がはっきり見えない。 ああ、と頭が縦に揺れた。口の中に唾液がじゅわりと溢れ、チョコレートの味が舌の裏にまで広がった。 訊くまでもなくわかったので「そっか」と呟いた。 「今の店で修行することもできるんだよ。でも憧れの人の下で時間の許す限りいろんなこと学んで吸収したい。迷ってるうちにも時間は過ぎるから、それならうだうだせずにとっとと結論出して早く行動した方がいいと思ったんだ」 そうなんだね。そうだよね。彼はこういう人だった。 わたしは簡単で楽で平坦な道を選ぶ人間だけど、彼は自分の足で茨の道に進んで、自分をけずり人生を磨いていく。 わたしからしたら、昔からの夢だった料理人の夢を叶えている時点で磨く必要なんかないって思うのに、彼の向上心はどの山々よりも高くて、宇宙まで到達する。 美味しそうなスイーツみたいな名前のフランス料理を作る人を憧憬している彼は、今もそれなりに有名なお店で働いているのに、そのルートから自ら外れようとしている。 彼が憧れを抱く料理人が病気を公表し、残りの人生すべてを料理にかけることを知った彼は、たった今日本を離れる決断をした。いや決断をしたのはもっと前で、たった今決断をわたしに告げた。 そっか。彼は、どうしても憧れの人の下で勉強したいらしい。 ──今しかない。 学生の頃は同じ時間軸で生きていたのに、いつの間にか明確なずれが生まれていて、何かに追われているように生きている今の彼とわたしが歩むスピードは別次元のものに思える。 毎日家と職場の往復ばかりで、今日何を食べるか、何を着るかぐらいの選択しかしていないわたしとは大違いだ。 右手を引っ込めて、指輪を撫でた。人差し指の腹に感じる冷たさとは裏腹にお腹の奥は燃えるように熱を宿している。 夜明けが迫っている。腹の底から沸き起こる感情は焦りか、諦めか、落胆か、絶望か、希望か。 嗚呼、時間が止まればいい──そう思ったわたしに「そっちは?」と彼のバリトンボイスが突きつけられた。 「彼氏と仲直りしたのか?」 彼の長い睫毛をじっと見た。 「まだしてないよ」 「仕事で忙しいのに時間作って会ってくれる優しい人なんだろ?早く仲直りしな」 「うん。そうだね。そうする」 遠くの空に光が滲みはじめる。人生の大きな決断をした彼は、これからの不安と期待が同時に胸の中で生まれ続けているのだろう。だってそう見える。今日の太陽がもったいぶるように届ける光は彼の顔を明るく染めている。 もしかしたら、日本に残って、わたしのそばにいて、お互いの都合がつくときに会ったり、話したり、遊んだり、ごはんを食べたり、そうやって何度でも味わえるけれど取り戻せない時間を積み重ねていけば、わたしは、わたしと彼は──。
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