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1.最初が肝心
トーシャイト共和国の首都から、自動四輪車で一時間ほどひた走る。ようやく辿り着いた静かな郊外に、その「楽園」はあった。
人里から離れ、あるのは豊かな自然だけ。生い茂る草原の、そこへ唐突に、一帯をぐるりと取り囲む壁が現れる。
白色の御影石のみが積まれた美しく高い壁。それらを越えて、内側に足を踏み入れれば、更なる感動があなたを待っていてくれるだろう。
どれほどの粋人であっても「隙」を見つけ出すことは叶わない、上品でラグジュアリーな内装。名高い大工と職人が、自らの腕前を如何なく発揮し作り上げた静謐な空間が、そこには広がっている。
趣深い調度品の数々に感心しながらまた奥へと進めば、あなたは丹精された中庭に目を奪われ、思わず足を止めることになるのだ。「庭」と聞いて多くが連想するような瑞々しさは皆無であり、植物といえば花のつかない樹木、そして苔のみ。地面には白砂利が敷かれ、まるで川の流れを表すかのように精緻に掃き清められている。
華美どころか地味。わずかに違えれば「みすぼらしい」との評を下されそうな――。だがこの庭は侘び寂びの心、無我の境地、そのような高潔な精神性すらも携えているのだった。
全てが高尚で贅沢で異次元で、誰もが王族あるいは大貴族の住まいと信じて疑わないだろう、その場所。
――だが。
白壁に埋め込まれた錆色に輝くプレートには――
『黄金ウサギ』
と、庶民的というか、あけすけに言えば「おっさんが好きそう」なピンク色のフォントで、どどんと刻まれているのだった。
「黄金ウサギ」。それがこの店の名前である。
店構えが優美であるからこそ、店名の下劣さが際立ってしまっているのだが……。
だが、それを責めては酷というものだ。
この店が誕生した昔は、それくらいあからさまな名づけが当たり前だったのだし、逆にいえば、その低俗さこそが老舗の証ともいえる。
そう、「黄金ウサギ」。
悪い遊びを嗜む者ならば一度は聞いたことがあるだろうここは、古今東西きっての優良店、その代わり店側が客筋を大いに選別するという、超高級娼館であった。
男性にとっての楽園。
そのような店を訪ねるにはあまりに不釣合いな客と、この物語の主役の一人、「黄金ウサギ」支配人のヘクター・オースティンは、今まさに向き合っていた。
とある春の日のことである。
「お話はよく分かりました……」
口ではそう言いつつも、ヘクターの端正な顔には戸惑いの色が浮かんでいた。
対して、彼の前でピンと背筋を伸ばし、座している老婦人の表情は、ここに来てから一度も変わっていない。年の頃は六十近いだろうその女は、常に何かに耐えるような険しい顔つきをしていた。別に何かつらいことがあったわけでもなく、彼女の顔は元々そういった作りなのだろう。
「では、お手配いただけるのですね?」
「ん、んー……」
「はっきり仰ってください!」
長い髪をひっつめ、濃紺の地味なスーツを着込んだ、身だしなみがきちんとしている――し過ぎていて面白味のない老婦人は、ヘクターに食ってかかった。
ヘクターは口をへの字に曲げ、掛けているメガネの縁を指先でなぞった。
――さて、どうしたものか。
強情で頑固。目の前の老婦人は普段なら相手にしたくないタイプだが、お客様である。
なるべく柔らかく提案すべく、ヘクターは咳払いをひとつしてから、仕事用の笑顔を作った。
「私どもとしましては、もちろんお客様のご期待に添えるよう、微力を尽くす所存です。が、今回のお話……そちら様の坊ちゃまのお相手については、再考いただいたほうがよろしいかと」
「なぜですの? 謝礼については、そちらの言い値をご用意致しますわ!」
怒りに似た鋭い光を目に宿し、キッと睨みつけてきた老婦人を見て、ヘクターは辟易した。ため息を吐きながら、応接テーブルの上に置いた相手の名刺にそっと目をやる。
名を「ゲルダ・ブッシュ」というこの女性は、とある金満伯爵家に仕えるメイド長である。
説得は無駄だろうと半ば諦めつつも、ヘクターは続けた。
「この店には、あなたがご指名なさった『フロレンツィア』以外にも、良い娘が揃っております。確かそちらの伯爵家のご子息――ギュンター様は、まだ十代でいらっしゃるのでしょう? もっと歳の近い、若い娘のほうがよろしいのではありませんか?」
「いいえ! どなたに聞いても、このお店のフロレンツィアさんというお方がいいだろうと、そうおっしゃいますの。そのスジでは有名なこちらのお店を信じていないわけではありませんが、万一不慣れな女性に当たったらと思うと……」
そこまで言うとゲルダ氏は少し頬を赤らめ、声を潜めた。
「いくら殿方といえど、こういったことは、その……デリケートなものでしょう? 最初で躓いて、ぼっちゃまのお心に傷をつけたくありませんの」
「……………」
――デリケートだからこその、提案だったのだが。
ゲルダ氏はどう見ても、「こういったこと」に柔軟な対応と理解ができるような、くだけた女性とは思えない。そういう人物が今回のようなお膳立てを任されたことが、そもそもの不幸だろう。
これがせめて相手が男であれば、もっと生々しくも、ざっくばらんに説明できるのだが。
――こうなっては仕方がない。
ヘクターは覚悟を決め、人差し指でメガネのブリッジを押し上げた。
「かしこまりました。ですがどうぞ、後悔なさいませんように」
「どういう意味ですの?」
「フロレンツィアは、確かに最高の娼婦です。それは保証致します。――ただ、だからこそ、前途ある青少年の相手としては、相応しくないのです」
「……?」
ゲルダ氏は不思議そうに首を傾げたが、それ以上問うことをしなかった。余計な詮索をして、せっかくまとまった話が白紙に戻ってしまったら困ると、危惧したのだろう。
このゲルダ・ブッシュ氏が仕えるデマンティウス伯爵家とは、豊富な資産を未だ保持し続けている大貴族だ。時代のうねりに飲み込まれ、多くの高貴な者たちが没落していく中にあって、名声を保ち続けている稀有な存在なのである。
そのような晴れ晴れしい伯爵家を継ぐ予定なのが、「ギュンター」という名の青年だ。
伯爵家長男、御年十八歳。そろそろ縁談などが舞い込む年齢である。
そしてそれはつまり、ギュンターが男として成熟の時を迎えつつあるということでもあった。
――性的な意味でも、である。
下半身の欲求が旺盛になるこの頃、ろくな知識も持たず、だが貪欲な金持ちの少年たちは、どうにも危なっかしい。街には危険な誘惑が数限りなく、罠のように張り巡らされているからだ。
大事な大事な後継者だからと、紐ででも繋いで家に閉じ込めておくのが一番安全だが、当然そんなわけにもいかず――。
だからみっともない不祥事を起こされないよう、跡取り息子様には安全かつ適度な経験を積んでいただくことが肝要となってくる。
つまり、勉強とガス抜きを兼ねた――俗に言う「筆おろし」が求められているのだ。
そして今回、デマンティウス伯爵家嫡男・ギュンターの、そのお相手として選ばれたのが、名店「黄金ウサギ」一番の売れっ子娼婦、フロレンツィアなのであった。
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