1.最初が肝心

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 ――こういうところは、もっと安っぽいものだと思ってた。  爽やかな花の香りが漂う一室にて、少年は借りてきた猫のように身を固くしていた。  やることもないからと、暇つぶしにキョロキョロ見回した広い部屋は、掃除が行き届いていて、埃一つ落ちていない。  置かれている家具や小物は、どれも一流品のようだ。  机に椅子にお茶の道具に――そして、大きなベッドも。 「……………っ」  ギュンター・デマンティウスはごくりと生唾を飲んだ。  今日彼は童貞を捨てに、ここ「黄金ウサギ」へとやってきたのだ。  恥ずかしいような、嬉しいような。不安なような、楽しみのような。  きちんとセットされた茶色の髪。それに覆われた頭の中で、ギュンターの諸々の感情はぐるぐる渦巻いていた。 『閨の作法を、教わっていらっしゃいませ」  メイド長のゲルダがそのような話を持ってきたとき、ギュンターは激しく憤った。  まだ思春期が終わりきっていない男子に、シモ関係の話を、しかも幼い頃から接してきた家族のような人間が持ち込んでくるなんて。目を覆いたくなるほどの大惨事である。  誰だって父や母、祖母や祖父などと、自分のセックスの話なんぞしたくはない……。  当然ギュンターはゲルダの提案を却下したが、最後は泣きつかれるように説得されて、渋々了承することに――これはまあ、そういうポーズを取ったわけであるが。  周りの友人たちも続々と経験を済ませている。男女の交わりがどのようなものなのか、ギュンターだって本当は大いに興味があったのだ。 「失礼します」 「!」  ノックの音を聞いた途端、ギュンターの全身は金縛りにあったかのように強張った。 「は、入れ……!」  上ずった声で返事をすると、扉が開いた。  現れたのは、すらりと背の高い女だった。 「ギュンター・ロダン・デマンティウス様ですね。私はフロレンツィアと申します。本日はよろしくお願い致します」 「あ、ああ……」  さすが高級娼婦というべきか、フロレンツィアと名乗ったその女はとても美しかった。  金色の髪は丁寧に巻かれ、大きな青い瞳には一目で虜になってしまう。鼻は高く、つやつやと潤む唇は形良い。  そして――胸はとても大きく、胴は両手で掴めてしまいそうなほど細かった。  フロレンツィアの礼儀正しい挨拶に空返事をしながら、彼女の着ている上品なワンピースの、その下の肉体を、ギュンターはつい想像してしまう。  ――でっけえし、ほっそい。それにすっごくいい匂いがする……!  今まで自分の周りにいた母や妹、使用人たち、それから同じ貴族の女たちと、目の前の娼婦は、明らかに種類が違っている。  これが本物の「雌」という生きものなのか。  こうして近くにいるだけで、ドス黒い欲望がふつふつと湧いてくる――。それはフロレンツィアが性を売ることを生業にしているからか。  強く男を惹き寄せる、目に見えないその力に、ギュンターは圧倒されていった。  ひとり詰めていた部屋は寒々しいくらいだったのに、今や熱を帯び、暑いとすら感じるほどだ。 「ふふっ」  フロレンツィアは不意に笑った。 「そんなに緊張なさらないで、おぼっちゃま」 「……!」  自分にかけられた言葉の、悪戯な響きが、ギュンターの神経を逆なでした。この貴族の坊やは、人から侮られるのが何よりも嫌いなのだ。 「……なんだ。一番の売れっ子だと聞いていたが、オバサンじゃないか」  フンと鼻で笑いながら言い捨てたが、内心はこの美しい娼婦にいささか怯えていた。 「オバサン」どころか――。女性の年齢はよく分からないが、フロレンツィアはどう見積もっても二十代だろう。  自分よりも年上で、そもそもこんな経験豊富な女のお相手を、うまくできるのだろうか?  惨めに失敗して、ますますバカにされないだろうか? 「あらあら……。本当に見えます? オバサンに」 「……………」  フロレンツィアはギュンターの暴言に気を悪くした様子もなく、長い髪をかき上げながら悠然と微笑んだ。仕草のひとつひとつが壮絶に色っぽい。  ――こんな女と、自分はこれからセックスするのか。  本当にできるのか、やれるのか。でもこれから、あの豊満な肉体を貪ることができるのだ。そう考えただけで、ギュンターの下半身に滾った血液が集まっていく。 「怖がらなくてもいいのよ」 「怖がる……!? ふざけるな!」  ギュンターは吠えた。  ――この俺を嘲るなど、この女に身の程をわきまえさせなければ……!  興奮しつつも混乱したギュンターは、今すぐフロレンツィアを押し倒して、犯してしまいたい衝動に駆られた。  凶暴なその想いの裏にあるのは、肥大したプライドだ。 『相手が誰であろうとも、おまえは膝をつくことなどしなくていい。デマンティウスは国一番の名家なのだから』  幼い頃から叩き込まれた貴族としての教育は、ギュンターを尊大な男に成長させた。  もちろん彼は、家名に恥じぬよう、努力もしてきたつもりだ。  学問にも剣術にも励み、大貴族の嫡子としてふさわしいだけの能力を身につけてきた。  だからこそ、軽んじられたくはなかったのだ。  ――それでも。  研鑽を続ける、その果ては見えない。  未来の自分はどうなっているのか。立派な大人になっているのだろうか。大貴族にふさわしいだけの富や権力、人望を得ているだろうか。  多くの若者が抱く漠然とした不安と焦燥感を、ギュンターもまた抱えていた。 「お話するっていうのも、なんだかマヌケだし……。早速始めましょうか。夜は短いわ。あなたにとっては、きっとね」  ピリピリと殺気立った青年の、その雰囲気を物ともせず、フロレンツィアはギュンターの手を取った。  ベッドへ導き、座らせると、靴を脱がしてやる。  楽になった足を寝台の上へ持ち上げられる頃には、ギュンターからは怒りが消え、戸惑いだけが残った。  ――これは……。  女とベッドの上で見詰め合っていると、ますますなにがなにやら分からなくなってくる。  服はいつ脱ぐのか。  声をかけるべきなのか。  そもそも、どう始めたらいいのか。  青年の血走った目線をかわすように、フロレンツィアはすいっと床に下りると、見せつけるようにワンピースを脱ぎ捨てた。その下から現れたのはグリーンの下着で、意外だったものの、爽やかな色のそれに包まれたフロレンツィアは尚若々しく見えて、ギュンターの気負いもいくらか軽くなった。  ――ああ、でもそうか。ベッドに乗る前に、脱いでしまえば良かったのか。  心の中で自分の手際の悪さに舌打ちをしていたギュンターは、次の瞬間、目を見張った。  ベッドの上に戻り、向かい合わせに座ったフロレンツィアが、自分の股間に足を置いたからだ。 「よいしょ」 「な、何をする!」  自分の急所を、女は無礼にも足蹴にしている。こんな仕打ちは理解を超えていて、ギュンターはパニックに陥った。 「やめろ……!」  しかし下着姿のフロレンツィアはギュンターの制止を気にも留めず、ただ黙って足を動かしている。何もしていないのに既にいきり立っていたペニスの位置を、器用にも足で整え、踏むように揉んだ。 「っ、あ……!」  振り払おうと思えば、簡単にできる。  だが初めて与えられる他者からの刺激に、ギュンターは反応してしまっていた。 「おぼっちゃまの、なかなかご立派なようですね」  フロレンツィアは手を自分の背中側につき、上体を反り気味にして、ギュンターをいたぶっている。雄を、足でしか構わないつもりのようだ。 「んっ、うう……っ」  快感に震えながらも、ギュンターは相手を必死に睨みつける。が、娼婦はかえって楽しそうに笑い、ズボンの布を押し上げる陰茎を両方の足裏で挟んだ。その状態で上下に動かす。  服の上からの遠まわしで焦れったい刺激も、経験のない初心な男からすれば、十分過ぎたようだ。 「あっ、あっ……! 擦るな……っ! ダメだ、それ以上……!」  フロレンツィアが施した倒錯的な愛撫は、時間にすれば五分にも満たなかっただろう。  ギュンターの、全身には鳥肌が立ち、目の前は白く眩んだ。 「あっ、あああっ!」  今までにないほどの恍惚感に包まれた直後、股ぐらの濡れた感触で我に返る。  射精してしまった……。あんな屈辱的な行為で、あっけなくも……。  果てたあとのギュンターを襲うのは、絶望だった。 「うっ……」  あまりに情けなくて、双眸から涙がこぼれ落ちる。  泣くほどのことか……。自分でも大袈裟な気がするが、昂った気持ちがコントロールできない。張り詰めていた何かがぷつりと切れた、そんな気がした。 「気持ち良かったのね?」  フロレンツィアは四つ足で近づくと、ギュンターの涙を指で拭い、彼の頬に口づけた。  娼婦の白い手が、上着にかかる。子供の頃のように服を脱がされていく間、ギュンターはなすがままだった。  抵抗はしない。そんな気力もなかった。  先ほど醜態を晒したせいで、心がすっかり折れてしまっている。 「あら、いっぱい出したのね。よく出来ました」 「くっ……」  汚れてしまったズボンと下着を下ろす手をふと止め、フロレンツィアはギュンターの濡れた瞳を覗き込んだ。 「大丈夫よ、気にしないで。着替えはちゃんとあるから、ね? 泣かなくてもいいのよ、ぼっちゃま」  対面した当初は挑戦的だと思ったフロレンツィアの態度が、今はとても慈愛に満ちているように見えるのは、気のせいなのだろうか。
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