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数日後、再び「黄金ウサギ」を訪れた伯爵家メイド長・ゲルダ氏の表情は、一言で言えば「複雑」であった。
「この度はありがとうございました」
「ええ、無事に、そしてご満足いただけたようで、よろしゅうございました」
受け取った小切手の額面を、こっそり抜け目なく確認してから、支配人ヘクター・オースティンは微笑んだ。
「おかげさまで。心なしかぼっちゃまも、大人になられたと申しますか……。刺々しかったご気性が、少し落ち着かれたようです」
「若者にはありがちなことです。女を知った男は、ぐんと成長するものですからね」
訳知り顔で、ヘクターは頷いて見せる。
「ええ、まあ……。その点は良かったのですけれど……」
ゲルダ氏は頬に手を置き、何か言いたげな目で見詰めてくる。
ヘクターは澄ました顔で、それを受け流した。
――警告はしたのだ。
あれから、デマンティウス家次期当主ギュンターは、フロレンツィアのお得意様となった。
一月と間を空けず、彼はしげしげと「黄金ウサギ」に通ってくる。つまり「沼った」というやつだ。
この逢瀬は、ギュンターが無理矢理結婚させられるまで二年ほど続き、その間に伯爵家の金蔵の三分の一を空にしたという逸話が残ることとなる。
フロレンツィアは、大変金のかかる娼婦なのだ。
「初めて飲んだ酒が極上のものだったならば、それ以下の味では満足できなくなる。そういう意味でフロレンツィアは、筆おろしの相手には相応しくないんだよ」
「どうせここにいるのだろう」と当たりをつけて足を運んだ「黄金ウサギ」内のバーラウンジで、くだんの娼婦は浴びるように酒を飲んでいた。
「ちょっと、しはいにーん! どうせまた、たんまりふんだくったんでしょー? おごりなさいよねー!」
カウンターに陣取っていたフロレンツィアは、ヘクターに気づき、振り返る。
「ああ、呑め呑め。ただし、三杯までだ」
「たった三杯!? ケチぃ!」
「その三杯がいくらすると思ってるんだ。味も分からんくせに、高い酒ばかりガバガバ飲みやがって!」
「なによ、あんただって、味なんて分かんないでしょーが!」
支配人の悪態に負けず、フロレンツィアも言い返す。二人の付き合いは長く、互いに遠慮はない。
「……………」
『味など分からない』
――本当にそうならば、良かったんだが。
沈黙したヘクターの前で、フロレンツィアは当てつけのように、一杯で彼の一日分の給金と等しい高価な酒を、ぐいっと飲み干した。
「おまえなあ……! 少しは味わって飲め!」
「ふふーんだ」
眉を吊り上げて叱咤すると、フロレンツィアは得意げに笑って、元の姿勢に座り直した。
自分に向けられた華奢な背中を眺めながら、ヘクターはよく見れば傷みが目立つ古ぼけたメガネの、その縁を撫でた。
――俺もあのお坊ちゃまのことを笑えない。
子供じみたやり取りの中で見せるフロレンツィアのおどけた表情、そして笑顔は、出会ったときと全く変わらない。
だからどうしても、胸に抱いた想いを、断ち切ることができないのだ。
――この男もまた、最初に口に含んだ美酒を忘れられず、追い求めているのである。
~ 終 ~
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