2.支配人の密かな楽しみ

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2.支配人の密かな楽しみ

「高級娼館『黄金ウサギ』は他と一線を画す名店である」。そのような高評価を得るに至った理由は様々あるが、そのうちのひとつは「娼婦絶対上位主義」によるものだろう。  娼館というくらいだから当然春を鬻(ひさ)ぐ場であるのだが、「黄金ウサギ」においては、客が好き勝手に女を抱けるというわけではない。ただし大貴族等の上級国民が足を運ぶ場合はその限りではなく、融通を利かせることもあるが、しかしそれでも居丈高に来られれば、きっぱりお引き取り願う。  具体的にどういうことかと言えば、来店初日は顔合わせ。そして二度目以降、娼婦に気に入られた客だけが、彼女たちの寵愛を受けられるのだ。  だから大枚はたいておきながら、結局娼婦に指一本触れられず終わることも、ままある。  そんな不遇のシステムを、しかしいわゆる「通」たちは愛した。  トーシャイト共和国のこの時代の高級娼婦とは、美貌はもちろん知性や品格にも秀でた一角の女たちであり、そのような女神とも思しき存在に認められることは、男たちにとって一種の勲章のようなものだった。だから彼らは競って、娼婦たちの愛を得ようと骨身を削るのだ。  男の花園「黄金ウサギ」。  その名のとおり輝かしき店も、しかし裏方を勤める者の生活は、大変地味なものである。  ――例えば、支配人・ヘクター・オースティンについて。  今日も彼は、判で押したようにきっかり朝の十一時に出社してきた。  支配人室に入る前に、途中食堂に寄って、少しだけ高価で香り高いコーヒーを買うのが、ヘクターのささやかな楽しみだ。悲しくもいじましい、サラリーマン人生なのである……。  今日もちっぽけな贅沢を享受すべく持ち帰ったコーヒーを片手に、だがヘクターは支配人室の前で立ち止まった。 「あんっ、あんっ、ああっ! おっきい! いいわ、ハンスぅ!」  妖しげな嬌声と息遣い。そして何かがガタガタと軋む音が、半開きになったドアの隙間から漏れ聞こえてくる。  ここで空気を読んでやるほど、ヘクターはお人好しではない。遠慮なくドアを開けると、部屋の中で絡み合っていた男女は滑稽なほど、それこそ言葉どおり飛び上がらん勢いで驚いた。 「し、支配人……!」 「あ、あはは……。おはようございますぅ」  女のほうは笑顔を浮かべるだけの余裕があるようだが、男の顔は青ざめ、元気のなくなった局部を隠すことすら忘れている始末である。  あろうことか二人は、支配人の机の上で体を繋げていたらしい。  ヘクターは近くにあったスプレー式の消臭剤を持つと、荒々しくプシュプシュと辺りに撒き散らした。 「おはよう、ウルスラ。何度も言っているが、この店では、客以外とのセックスは禁止だぞ」 「ごめんなさあい。つい」  悪びれた様子もなく、ウルスラは首をすくめて見せる。その間にようやく我に返り、慌てて衣服を整え始めた男を、ヘクターは有に頭ひとつ分高い位置から睨みつけた。  ヘクターの身長は百九十cm近く。そんな長身の彼から見下されると、なかなか迫力がある。 「ハンス、君はクビだ。残念だよ」 「ま、待ってください、支配人! これはほんの出来心で……!」 「言い訳を聞く気はない。『売りものに手を出したら、理由がどのようなものであっても即刻解雇する』と、常々言い渡しておいたはずだ。――荷物をまとめて、二時間後にまた来なさい。今日までの給料を支払うから」 「……!」  何か言おうとして、だがハンスは諦めたのか、唇を引き結んだ。  機械のように冷酷な支配人の、その決定事項は、絶対に覆ることはない。若く敏いこの青年は、身に沁みてよく理解していたのである。 「黄金ウサギ」はほかの店よりも圧倒的に給料が良い。だから求人広告を出せば、あっという間に枠が埋まるほど人気がある。  だが、それだけ規律も厳しい。例えば、「娼婦には決して手を出してはならない」。この決まりごとも、そのひとつだ。  当たり前のことを定めているように思えるが、これを守れない男は存外多い。  今回咎められたハンスだって、ここで働いた三年間、この規則を守れず、去っていく先輩たちの背中を何度も見てきたはずなのだ。しかし遂に同じ轍を踏んでしまった。  やはり娼婦の中でも選ばれし女たちの持つ魔力は、恐ろしいものがある。  ――誘われれば、男は抗えないのだ。  がっくりと肩を落として退室していくハンスの、その悲壮な後ろ姿を見送って、ウルスラは「可哀想に」と、感情が全くこもっていない口調でつぶやいた。まるっきりひとごとだ。  ちなみに「従業員と性交してはならぬ」とのこの禁を破っても、娼婦のほうには何のペナルティもない。せいぜい口頭で注意される程度だ。 「黄金ウサギ」では、女たちは女王様だから何をやっても許され、我慢と辛抱を重ねるのは、下僕である男たちなのである。 「ウルスラ。君も慎みなさい」 「はーい。すみませぇーん」  窘めた側が気の抜けるように明るく、ウルスラは謝った。  短く整えた赤茶の髪と、灰色の大きな瞳を持つウルスラは、二十代半ばの快活な女性である。 「黄金ウサギ」の一番人気は「フロレンツィア」という名の娼婦だったが、ウルスラにはフロレンツィアとはまたちがう健康的な魅力があり、多くの客たちから愛されていた。  ――嫌というほど、客と寝られるだろうに。  仕事で散々性的な奉仕をして、それでも尚、例えばハンスのようなヒラの従業員だとか、自分にとってなんのメリットもない男と寝ようとするウルスラの生態は、ヘクターにとってまったくの謎である。  ますます不思議なことに、こんな面倒を起こすのは、ウルスラ一人だけではないのだ。過去には支配人以外の従業員全てを喰い散らかした娼婦もいたほどである。とんだ猛者がいたものだ。  ――あのときはスタッフを総入れ替えする羽目になって、めちゃくちゃ大変だったなあ……。  などとヘクターがしみじみ過去を懐かしんでいると、目の前に細い指が伸びてきた。 「やめなさい」  メガネをかけている人間なら誰しもが、他人に自分のメガネを弄られることを鬱陶しく思うものだろう。容赦なくパシンと手の平を叩いてやれば、ウルスラは唇を尖らした。 「いったーい! 支配人のメガネ、もうずっとそれよね。いい加減変えたら? 今はもっと軽くて丈夫なのが出てるわよ」 「――私はこれでいいんだ」  とりつく島もなくそう言うと、ヘクターはかけているメガネの銀色のブリッジを、人差し指で押し上げた。 「ほら、もう行きなさい。私は忙しいんだ」 「はーい」  ダラダラとした足取りでウルスラが出ていくのを見届けてから、ようやくヘクターは椅子に腰を下ろした。  まずは机から出勤表を取り出し、先ほど解雇を言い渡した、哀れな従業員の給与計算を始める。  ヘクターだって、同じ男としてハンスに同情しないわけではない。ハンスは特に若かったから、娼婦の手練手管にかかればイチコロだったろう。  それでも規則は規則だ。曲げてしまえば、秩序は崩壊してしまう。  ――だが、フロレンツィアは寂しがるだろうな。  ハンスは素直で真面目な好青年だった。その性分を気に入って、フロレンツィアは何かと目をかけてやっていたし、ハンスもまた姉貴分としてフロレンツィアを慕っていた。 「さて……」  すっかり冷めてしまったコーヒーの、テイクアウト用のカップに口をつけながら、次に郵便物に目を通していく。  ダイレクトメールに請求書、客からの予約票……。その中から一通を拾い上げて、ヘクターは眉根を寄せた。  白地に毒々しい赤い薔薇が描かれた封筒。宛名はフロレンツィアで、差出人は「ニクラス・バッハ」とある。  ヘクターは躊躇なくそれを開封した。「黄金ウサギ」では娼婦宛に届けられた封書・荷物の類は、セキュリティの面から、管理者が開けても良いことになっている。  ――それにこの禍々しい手紙は、どこからどう見ても警戒すべきものだ。  中に入っていた便箋を広げると、手書きされた数多(あまた)の文字が、目に飛び込んでくる。 『会いたい。会いたい。会いたい。会いたい。会いたい。会いたい。会いたい。会いたい……』 「会いたい」。一言、それだけの羅列が、乱れることなくみっちりと紙面を塞いでいる。 「………………」  難しい顔をして、ヘクターは心なしか苦味の増したコーヒーを喉に送った。  このような異様な手紙が届くようになったのは、三ヶ月も前からのことだ。  差出人のニクラス・バッハは――封筒に書かれた名が「騙り」でなければだが、「黄金ウサギ」の客である。最近になって親から小さな町工場を引き継いだ平凡な青年で、高級娼館に通えるほどの収入はないはずだが、「せめてもの記念に」とお金を貯めて、この店に足を向けたらしいのだ。  そして、宛名にあるフロレンツィアを指名して――恋に落ちてしまったらしい。  だが先に述べたとおり、「黄金ウサギ」では、ただの平民が一度や二度の来訪で娼婦と寝ることはできない。ねんごろになるにはそれなりの金と忍耐が必要なわけだが、ニクラスには女に貢ぐだけの経済力はなかった。  その代わりなのか何なのか、こうして書面による攻撃が始まったのである。  ――それにしても、鬱陶しい。  ヘクターはデスクの引き出しからクッキーの空き箱を取り出すと、そこへニクラスからの手紙をしまった。  何かあったときのために、これまで送られてきた不穏な手紙は、こうして全て取ってある。  しかしこの気味の悪い手紙は、これだけではただの恋文である。警察に突き出したとしても、鼻で笑われて終わりだろう。 「殺してやる」だとか何だとか、もっと直接的な危害を加える旨の文言が記されていれば、まだ手の打ちようはあるのだが……。 「もうちょっと情熱的なことを書いてくれればな……」  ヘクターは残りのコーヒーを飲みながら、皮肉を込めてつぶやいた。
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