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そして、翌日。
判でついたようにいつもどおり出勤してきたヘクターは、支配人室のソファにどっかり陣取っている、妙に姿勢の良い人物を発見した。
「なんだ、フロレンツィア……」
フロレンツィアが午前中、店にいるのは珍しいことだ。賄い目当てに来たのだとしても、まだ時間が早過ぎる。
上着を脱ぎながら、ヘクターは昨日のことを思い出した。
「そうだ、おまえ! 昨日は勝手に帰りやがって……!」
「ごめん」
「……?」
そう素直に謝られると、二の句が継げなくなる。調子が狂ったヘクターは、咳払いした。
「腹壊したって聞いたが、治ったのか?」
「うん、へーき」
長い髪をいじりながら答えるフロレンツィアの顔は、確かに血色がいい。そもそも昨日の急病とやらも本当の話だったのか、疑ってしまうのだが……。あえてヘクターは、つっこまなかった。
「ウルスラに礼を言っておけよ。あいつのおかげでお客様も満足して――ああ、そうだ」
言いづらそうに、ヘクターは切り出した。
「昨日のおまえの客……エマール様が、担当をウルスラに変えて欲しいと仰ってな。……どうする?」
「お客様がそう言うなら、そうしてあげてちょうだい」
フロレンツィアは表情ひとつ変えず、即答した。
「――分かった」
大抵の娼館において、客がその店で指名できる娼婦は一人きりである。一度深い仲になった女を途中で変えることは、原則的にできないのだ。それを可能にするには十分な根回しと、なにより娼婦の気持ちにかかってくる。
お得意様を別の娼婦に取られるということは、つまり「捨てられる」ということだ。食い扶持が減るだけではなく、自尊心を大いに傷つけられる事柄である。
いくらフロレンツィアがさっぱりした気質だとしても、内心では今回のことをどう思っているのだろうか。
探るようにチラチラと向けたヘクターの視線の先で、フロレンツィアは暢気にリップクリームを塗り始めた。
「最近空気が乾燥してて、嫌になるわ。唇が荒れちゃう」
薔薇のような可憐な唇をなぞっているクリームの細長い容器には、「シセンドゥ」のロゴが刻まれている。
――やはり流行っているんだな。
もうオジサンと呼ばれてもおかしくない年齢相応に、女性の持ちものに疎いヘクターも、「シセンドゥ」というメーカー名だけはすっかり覚えてしまった。
「姐さん!」
「!?」
突然扉が開き、昨日と同じようにウルスラが姿を現す。相変わらずノックはない。
意外に小心なヘクターは、びっくりしたのかビクッと体を縮こまらせた。
「ねえねえ、賄いの時間まで暇でしょ? お客さんへの贈り物を、ちょっと見てもらいたいんだけど……」
「いいわよ」
フロレンツィアは快諾し、二人は支配人に声すらかけず、さっさと連れ立って出て行った。
「……人の部屋を、待ち合わせ場所に使うな」
むすっと顔を歪めて、ヘクターは椅子に座った。来る途中で買ってきたコーヒーを口にしながら、机に置かれた郵便物のチェックを始める。
ダイレクトメールに、予約票に……あまり好ましくないフロレンツィアへの手紙。
いつもどおりの――。
「……ん?」
ヘクターは思わず手を留めた。
フロレンツィアへの手紙が、今日は二通あったのだ。
この日より、不審な手紙は複数届くようになった。
一通はここ三ヶ月間送られてきたとおりの、白地に赤い薔薇の絵がついた封筒に、ニクラス・バッハの署名があるもの。手紙に書かれているのは、ひたすら「会いたい」のみだ。
目新しいもう一通は、そっけない茶封筒に入っており、差出人の名はなかった。手紙の内容は、「店を辞めろ」。しかもそれだけでは足りないのか、虫や小動物の死骸などを同封してくることもあった。ここまでくれば、立派な嫌がらせである。
――二通ともニクラスの仕業なのだろうか?
「警察に届ける!」
業を煮やしたヘクターが告げると、フロレンツィアはまたも寝起きの情けない身なりで、あくびをしながら言った。
「そんなことしなくても大丈夫よ」
「何が大丈夫なんだ!」
ヘクターは思わず声を荒げた。
脅されているのは自分なのに、フロレンツィアのこの危機感のなさ、他人事のような態度は何なんだろう。
「まあ、もうちょっとだけ様子を見ててご覧なさいって」
余裕綽々の口ぶりで言うと、フロレンツィアはふらっと支配人室の机に近づき、そこにあったコーヒーを奪った。
「あっ! こら」
フロレンツィアの支配人室詣では、ほぼ日課と化している。
だが彼女はこの部屋に来るだけで、何をするでもなく、眠たい顔をしているだけだ。
仕事の邪魔をするわけでもないから、ヘクターは放置しているが。
――正直に言えば。
朝一番に惚れた女の顔を拝めるこの状況は、ヘクターにとって喜ばしいことだった。
「ミルクが欲しいわね」
フロレンツィアはヘクターのコーヒーを手に、口をへの字に曲げている。
「美味いコーヒーは、ブラックで飲むべきだ」
「やーねー、人の嗜好にケチつける奴って。ケツの穴が小さ過ぎるわ」
「そもそもそれは俺が! 俺のために! 買ったものだろうが! おまえこそ、人の好みに文句つけやがって」
言い返すと、フロレンツィアは当てつけのように、ごくごくとカップの中身を飲み干してしまった。
「ああ……俺の楽しみが……」
落胆したヘクターは、明日からコーヒーは二つ買おうと心に決めたのであった――。
そんな子供じみたやり取りを経てから、郵便物のチェックを始める。
「あれ……」
フロレンツィア宛の怪文書は、茶封筒の一通しか届いていない。
それよりももっと奇異なことがあった。
「――ん?」
予約票。これは娼婦との約束を封書で取りつけるものだ。人気のある娼婦だと、この手筈を踏まなければまず相手をしてもらえない。
今朝届いた予約票はフロレンツィアに対してのものだったが、その申し込みをしてきた人物の名は、ニクラス・バッハであった。
迷惑行為を散々働いた店に、堂々と予約を入れようなどと、この男は一体どういう神経をしているのか――。
絶句している支配人の脇に立ち、フロレンツィアは彼の手元の予約票を覗き込んだ。
「へえ、来るんだ、ニクラスさん」
「ちゃんと断ってやるから心配するな。しかし、どう言うか……。逆上されても厄介だし」
シャープなラインの顎に手を当てて、ヘクターは送られてきた予約票を見ながら、考え込んでいる。
『ようやくお金が貯まった。やっと君に会うことができるね』
予約票のメッセージ欄には、そんな脳天気なことが書かれている。――そこがまた怖い。
「いえ、受けるわよ」
「なんだと!?」
「――ただし」
フロレンツィアが予約票をつまみ上げると同時に、ノックもなく扉が開いた。――この襲撃も、今やルーティンと化している。
「おはよう、姐さん、支配人!」
ウルスラは最初笑顔で入ってきたが、部屋に漂う不穏な空気を感じ取ったのか、不思議そうに首を傾げた。
「どうしたの? 何かあった?」
「ウルスラ……」
フロレンツィアはウルスラに駆け寄ると、悲しみに耐えるかのように、よよよ…と体をくねらせた。
「あなただと見込んで、お願いしたいことがあるの。聞いてもらえないかしら……」
「なあに、姐さん! あたしにできることなら何でもするわ!」
フロレンツィアに泣きつかれたウルスラは、頼られた喜びからか瞳をキラキラと輝かせている。
「……!?」
ヘクターは突然始まった小芝居に、呆気に取られるしかなかった。
「今日この方が、私に会いに、ここに来るの……」
フロレンツィアはニクラスからの予約票を、ウルスラに見せた。
「えっ!? この人って確か、姐さんにしつっこく手紙を送りつけてる……!」
しかしフロレンツィアは首を振る。
「――実はニクラスさんとは、将来を誓った仲なの」
「えっ!?」
「えっ!?」
これにはヘクターも声を上げて驚いた。
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