紙面の上の思惑

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紙面の上の思惑

「小林ィ、三話目の締め切り今日までってこないだ言ったでしょ!またアンタ締め切りすっぽかす気!?」 自分が勤める出版社のデスクで、電話の受話器を片手にあたしは声を張り上げていた。周りの同僚達がこちらを窺う気配を出したがあたしは気にしない。 「すみません、佐野さん。・・・でも、五時まではあと一時間ありますけど・・・」 電話越しにそう言い返してきた相手は、あたしが担当する作家の小林(けい)だった。なかなかに売れている作家だけど、気が弱くていつもあたしに頭を下げているし、時間にルーズで締め切りをしょっちゅう破る。まあ、作家なんて大体そんなものかもしれないけど。 「言い訳してんじゃないよ、どうせ五時まで待ったってアンタ送ってこないでしょ」 「すみません、明日には必ず送りますので」 「絶対だからね、仕方ないから明日までは待ってやるよ」 そしてあたしはガチャンと受話器を置いた。周りには依然としてあたしの様子を探るような空気が漂っていたけど、それを無視してあたしはデスクから立ち上がると、ハイヒールの(かかと)を鳴らして喫煙所に向かった。 佐野 (かなえ)、二十六歳の出版社勤務で小林慶の担当者。金髪に近い色のウェーブしたロングヘアに、濃い化粧。学生の頃は誰がどう見ても「ギャル」というような存在で、大人になった今でもその名残が抜けていない。そして気が弱くてルーズな担当作家を日々叱咤している——それがあたしだった。 こんな仕事をしているけど、もともと小説に興味があったわけじゃない。高校生の頃までは活字のかの字も知らなかったけど、編集者を志すようになって、大学時代は必死で本を読み漁った。その甲斐あってか、あたしは学生の頃よりかはいくらか知的になったと思う。 「本当に、編集者なんてなりたかったワケじゃないのに・・・」 自販機で買った缶コーヒーを片手に、喫煙所で煙草をふかしながらあたしはひとりごちた。自分がこんな仕事をすることになるなんて、思っていなかった。  別の日、あたしは少し小洒落た喫茶店で小林と向かい合っていた。小林が次に出す新作の打ち合わせの為だった。 ホットコーヒーをすすりながら、あたしは目の前の男を観察した。あたしと同い年で、黒い短髪に眼鏡。地味な印象で、ぱっとしない雰囲気。それが小林慶だった。 「——じゃあ、そんな感じで頼むよ。あたしまだ仕事あるから、会社に戻る。忙しいのにあんたの家の近くまで来てやったんだから、感謝してよね」 小林は出不精で遠出を嫌う男だった。だから打ち合わせの時は仕方なくあたしが小林の家の近くまで来てやっていた。 「ありがとうございます。いつもすみません」 そう言って小林は頭を下げた。その動きに合わせて目元まである前髪が揺れた。 「(かなえ)さん、優しいところ、高校時代から変わってないですね」 目じりに皺を寄せて微笑んだ小林から出てきたのはそんな言葉だった。 あたしと小林は高校時代の同級生だった。クラスも一緒で、その時は将来こいつのビジネスパートナーになるなんて思ってもみなかった。 「なに馴れ馴れしく名前呼んでるのよ」 「あ、すみません、つい。間違えました」 「あたし本当にもう帰るからね」 あたしは素早く椅子から立ち上がり、自分の分のコーヒー代を机に押し付けるように置くと、ツカツカと靴を鳴らして店の出口に向かった。 喫茶店を出たあたしは依然として早足で歩いていた。ヒールの音がうるさく鳴ったけど、あたしの耳には入っていなかった。 ——名前を呼ばれたのは初めてだった。それだけであたしは動揺して、いつも以上に足をフル回転させて歩いていた。 高校時代、小林はあたしにとって空気のような存在だった。いてもいなくても同じ。何の興味も無かったし、自分には関係ない人間だと思っていた。 ——けれど。 体育の授業で小林は転んで膝に怪我をした。たまたまそこに居合わせたあたしは、 「何やってんのよ、トロいなあ。・・・はい、これ使いなよ」 と、特に何の感情も無く自分のハンカチを差し出した。小林は 「え、悪いよ。ハンカチ汚しちゃう」と遠慮したけど、あたしは「いいから」と押し付けた。すると小林は少し迷った後それを受け取って、「佐野さんって優しいんだね」と目尻に皺を寄せて言った。 あたしはその笑顔と奴の言葉が衝撃的だった。ただでさえギャルというだけで「優しい」というカテゴリーからは除外される上に、当時から荒い言葉遣いだったから、そんなことを言われたのは初めてだった。おまけに後日、小林からお礼の言葉と一緒に新しいハンカチを渡された。白地にピンクの蝶が刺繍されたハンカチだった。その出来事以来、もう小林はあたしの中でなくてはならない存在になってしまっていた。 けれどその気持ちは今日までずっと自分の胸の中だ。どう考えたってあたしは小林に好かれるようなタイプじゃなかったし、小林を気にするようになってから、奴はとある女子と接する時だけ明らかにそわそわしていることがわかった。その女子はやっぱりあたしと違って、清楚で純粋そうな女子だった。それを見て、あたしは自分の気持ちに蓋をすることにした。 卒業が近くなって、小林への気持ちにケリをつけなきゃいけないと考えていた頃。あたしは小林と友人の雑談の中から、彼が小説家を目指していることを知った。もう既に小説を書いていて、本名で賞に応募していることも。 それからはもう必死だった。まずは今まで自分とは無縁だった小説を買い漁り、読み耽り、編集者への道を辿って奇跡的に小林の担当になることが出来た。それだけで十分だった。両想いになれなくたって、あたしはあたしの形で小林と共に居る。照れ隠しで必要以上にキツい言葉を浴びせてしまうけど、好きな人の前で冷静でいるのなんて、無理だった。 夕方の風を浴びながら、変わらず速い歩みで駅へと向かう。動揺はまだ治まらなくて、赤面してる気がして恥ずかしい。それを隠したくて、あたしはバッグからハンカチを取り出すと、口元に当てながら歩き続けた。それは少し年季の入った、ピンクの蝶の刺繍がされたハンカチだった。
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