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「全部分かってたよ。だからこそあたしは、あんたを選んじゃいけないって思った。たとえ世界の誰からも認めてもらえない愛だってあたしは構わなかったけれど、きっとあんたはそのことで、いつか傷ついてしまう時が来るのも知ってた。だから、あたしのことが好きで、かつあたしからも好きなあんたじゃなくて、一方的な矢印を向けてくれたあの人を選ぼうとした」
おれが言えた立場じゃないけれど、確かに姉は臆病だったのかもしれない。誰からも認められなくてもよかった……と言いつつも、姉はおれや自分自身の本当の気持ちを知りながら何もしなかった。つい、たった今まで。
最後の最後、他家へ嫁ぐ直前になってから、おれの振る舞いを見て、姉は未来永劫隠し通そうとしていた本心を零れ出させたのだった。とうの本人は「んー、やっぱ今日は、帰ってくるべきじゃなかったなあ。決意が揺らいじゃうよ」と苦笑いしている。本当は笑いたくなんかないだろうに、無理をして。
おれが何も言葉を返さずにいると、風に乗せるみたいにふんわりと姉は言った。
「だけど、一度だけでいいから教えて。あんたは今でも、あたしを選んでくれる? それとも、お互いに傷つかないような選択をする?」
ほんの少しだけ、姉の存在が遠くなってゆくのを感じる。
でも、絶望することはない。たとえ結ばれる可能性が潰えたとしても、いったい相手が自分のことをどう思っているのか……なんてことで悶々とする日々は、もう訪れない。
おれの中にいつまでも姉の存在があるのと同じように、姉が明後日にチャペルで知らない男とキスをしているその瞬間も、ハネムーンの旅路にも、いずれ子供が産まれたときにだって、きっと姉の中でおれは存在し続けているはずだ。恋人にはなれなかったけれど、それでも愛していた男として。
世の理に反していても、おれと姉は確かに、想い合っていた。今となっては、そう確認できただけで十分に思えた。ここでおれが伝えるべき言葉も、姉が期待している言葉も決まっていることは知っている。
また、それらは奇跡的にぴったり合致していることも。
名残惜しくも、その言葉を唇にのせた。
「それでいいよ」
言いながら、姉はおれの髪を撫でた。
「偉いねえ。これもやっぱり、あんたが大人になっちゃった、ってことなのかなあ」
「なんだよ、そ――」
誂うようにくすくすと笑う姉のほうへ、おれは抗議の声をあげようとした。
けれど、それは叶わなかった。
おれは腹話術を会得していない。口を塞がれてしまっては、言葉を表現する手段を失うということでもある。
「月明かりに照らされて、まるでチャペルみたいだねえ」
おれの顔から唇を離して、姉はおどけるようにそんなことを言った。キャンドルもステンドグラスも聖歌隊も牧師もいない。誰が拍手をするわけでもない。
それでも確かに、月だけがおれたち二人を見下ろしている。
「最後にいいこと教えといてあげる。大人ってのは、ずるいんだよ。――今のあたしみたいに」
本当にずるい女だ、と思った。ふいにこんなことをされてはもう二度と、忘れたくても忘れられないじゃないか。
無意識に唇を噛むようにして舐める。
いつも姉が吸っている、甘ったるい煙草のフィルターの味が残っていた。
先に帰ってるからね、と言い残した姉は、すたすたと家への道を歩いてゆく。月明かりに浮かび上がる姉の後ろ姿から、ゆらりと煙が立ちのぼる。
おれは追いかけられない。姉はおれの手の届かないところに行ってしまうけれど、それをだまって見ていることしか、おれには許されていない。
やがて姉が遠くの交差点を左へ折れたときに揺らめいた紫煙は、天使の翼のように見えた。
なるほど、確かに。
おれにとっての姉は、まさに天使だったのかもしれない。
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