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よくあるのは結婚式の前夜に、明日には別の男とステンドグラスの前で接吻する姉と、ひそかに姉へ想いを寄せていた弟が互いに惹かれ合ってうふんあはんな関係になって……みたいな展開だが、現実はそれほど甘くない。大抵の場合、結婚式前夜の新郎新婦は式場近くのホテルに泊まっているのだ。
我が家もご多分に漏れず、会場自体がホテルに併設されているチャペルと宴会場ということもあって、明後日の挙式に備え、その前日となる明日はホテルに泊まるという。なんなら新郎新婦のみならず、両家の家族も同じように宿泊するらしいのだが、おれは明日に大学のゼミがあるのでそういうわけにもいかず、明後日の朝に一人だけで会場へ向かう手はずとなっていた。
「なんかさあ、実感ないよねえ。明日もここに帰ってきそうな感じするわ」
リビングにいるのは、おれと姉の二人だけだった。親父とオフクロは最近めっきり早寝になって、既にとっぷり夢の中に違いない。
その反面、明後日には高砂席に座るというのに、今日の姉はいつも通りだらだらした姿勢をしながら、あいかわらず缶ビールを飲んで紫煙をくゆらせている。
普通の煙草は巻紙が白いけれど、姉が好んで吸うものは焦げ茶色で、普通のものより少し長く見える。煙草やめろよ、と昔言ったことがあるが「これは煙草じゃなくて、紙巻き煙草みたいな葉巻だからいいの」という謎の理論で、文字通り煙に巻かれた。よく読んでいた少女漫画の登場人物が吸っていた銘柄らしい。
脳みそがでんぐり返りそうな、甘い匂いがする。本人に言ったら調子に乗るので決して口にしなかったが、おれは親父が吸っているメビウスよりずっと、その匂いが好きだった。
「新婦が挙式前々日までビール飲んでていいんかよ」
「へーきへーき。今更どんだけ節制したところで、一日そこらでたいした変わんないって」
確かに、大学に入った頃から社会人になった今まで、姉はわりと破滅的な食生活をしているが、見てくれにさほど変化はなかった。
「旦那がなんか言ったりしねえの? その匂い」
「んー、特になんも言わないよ? 出会った時からずっと吸ってるし」
「玄関からこの匂いがしたら、姉ちゃん帰ってきたなー、ってずっと思ってたな」
「ふーん。あんた、あたしに何の興味もないみたいな顔して、結構気にしてくれてたんだ」
ひぇひぇひぇ、と気色悪い笑い声をあげながら、もう一度缶ビールを傾ける。
結構、だと。ふざけんな。
そんな単語じゃ足りねえっつーんだよ。
アルコールに脳みそを侵されて、どんどん愉快そうな顔になっていく姉と対照的に、おれはもうすぐ訪れる「ゼロ・アワー」を思うと、胸が焼け付きそうな気持ちでいっぱいになった。
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