Case.3 痩せ馬の声おどし

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……目の前がぼんやりする。おかしいなあ、目はまだそんなに悪くないのに。 この人が何か話しかけてくるけど、何て言ってるのか分からない。 なにか入ってきた。……人? だったらこの人の仲間? いやだ、もういやだ、帰して、家に帰して、許して、ぼくが悪いことをしたなら謝るから! 父さんと母さんが待ってる、ぼくの家に帰して……! ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!! 「――みーくん」 ひぐ、と崎山の喉が鳴った。 突然、絶望に塗り固められた意識を斬り込み、割り込んできた声に、急激に体中の感覚が戻ってくる。 崎山の意識が乖離現象を起こしている間、防御反応として体を無理矢理折り畳みトイレの個室内でうずくまっていたのだ。 蘇っていたトラウマのせいで、うずくっている間、ずっと「ごめんなさい」「ゆるして」「いえにかえして」と懇願しながら咽び泣いてもいた。 「みーくん」 また呼ばれた。崎山は、覚えのある呼ばれ方にのろのろと顔を上げる。 目の前には、見覚えのある黒髪の青年がいた。 涙で滲み、汚れたレンズ越しの視界でも分かる。この人物は……。 「……こう、ちゃん?」 随分とか細く、稚い声だった。普段の崎山から発せられる声と比べてワントーン以上高く、柔らかい。 こうちゃん――光貴の背後で、西村と綾人が驚いた顔をしている。 崎山に視線を合わせるために床に膝を突いていた光貴は、ふわりと安心させるように笑いかける。崎山の眼鏡をずらしつつその目元を拭った。 「うん、こうちゃんだよ。みーくん、どうして泣いてるの? もしかして、誰かにいじめられた?」 光貴も、崎山に合わせたように意識して柔らかく、幼い言葉遣いで話しかける。 幼い頃からそうだった。崎山が落ち込んだりしているときの光貴は、いつも子供なりに慰めようとしてくれた。 誘拐犯の家から助け出された後、あまりのショックと周囲の不理解、悪意に一家ごと晒されていた際、光貴は出来うる限り崎山に寄り添っていた。 今のように、包み込むような優しい声音で話しかけてくれていたことを、思い出した。 「……っ、く、ひっ、ぐ、」 一度決壊した涙腺は、止めようと思っても止められなかった。次々と涙が出てくる。 光貴は崎山の顔を胸に抱き込んだ。頭を撫でながら囁いてきた。 「みーくん大丈夫、怖い人はいないよ。俺がメッてしたからね」 頭を慈しむように撫でられる感触。規則的に鼓動する心音。密着した体から伝わる体温。塞がれる視界。薄く漂う夜伽光の残り香。 恐怖と絶望に凝り固められた心が徐々に溶かされていく。トラウマが再び奥深くにどろりと沈んでいく。 徐々に息がしやすくなってきた。比例するように、嗚咽が大きくなる。 この場がどこであるか、誰か他にいるのか、そんなことを考える余裕は今の崎山にはなかった。 ただただ、今も彼の心の奥深くに救っている忌まわしい記憶から目を背けたくて、目の前の幼馴染みにすがりつくことしか出来なかった。 光貴も黙って崎山を抱きしめ続ける。 しばらく経って彼の嗚咽が大人しくなり始めたところで、ある提案をした。 「……もうここに居たくないでしょ? どこか別の、落ち着ける場所に行こう。そこで休もう」 言われ、崎山は頷いた。 大分思考が落ち着いてきて、あれこれと考えられるようになってきていた。 一刻も早く、西村の居ない場所に行きたい。 光貴が身を離す。目を開けたくはないが仕方なしに開けた。 眼鏡のレンズは涙で埋め尽くされるように汚れていた。 眉間に皺を寄せていると、光貴の手がすっと伸びてくる。 「え?」 あっさりと眼鏡を外され、呆気に取られる。 彼は崎山の近視用眼鏡を自分のジャケットの内ポケットにしまい込んだ。 「大丈夫大丈夫。気にしない気にしない」 にっこりと笑う光貴。 「いや、気にするなと言われても……」 崎山は自宅でも眼鏡をしている時間の方が長いため、出先で眼鏡を外すと妙な感覚になって落ち着かない。 もちろん視界がぼやけて見えにくくなるため、物や人の判別などもつきづらい。 トラウマのある崎山には死活問題だ。 不意に、バサリと頭から布をかけられる。さっきも感じた、夜伽光であるときの光貴が纏う香りと同じものを感じた。 「人を視界にあまり入れたくないでしょう。俺のコートだけど良かったらかぶってて」 それで、ああ、と納得する。 (……イランイラン、だったか) 崎山は【夜伽ヒプノセラピー】に通うようになってから、体験記などを検索して読み漁った。 そこに夜伽光本人や室内の香りに対して言及しているブログがあった。 そこで、崎山はあの香りをイランイランだと知った。 (……夜伽先生の……、光貴の、におい) そう意識すると、気持ちが少し上向きになる。
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