Case.3 痩せ馬の声おどし

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出発してから、しばらく車内は沈黙に包まれたままだった。 未だ光貴のコートを被ったまま、崎山は項垂れる。クリスマス間近の景色を見ようという気になぞなれなかった。 膝の上で、大きく骨張った手を緩く開閉する。 どこからどう見ても男の、大きく力強い手。 幼さや弱さを嫌悪し、憎み、それらを必死に削ぎ落として鍛えてきたというのに。 (……何も、抵抗できなかった) 崎山を誘拐した犯人は、中年の独身男だった。 未成年の中性的な男子にしか性的興奮を覚えず、いくつもの美少年フィギュアや未成年の男性が受け身側の成人コンテンツ収集が趣味だった。 崎山や光貴の生まれた町には転勤で移り住んできた。 生活用品を揃えようと買い物に出たとき、たまたま中学校から下校中の崎山に目を奪われた。 まさしく理想像の、麗しき美少年。あっという間に一目惚れしてストーカーとなり、彼を誘拐したのだ。 自身の住む家に監禁し、〝ぼくのお嫁さん〟と呼び、抵抗できないよう拘束して、何度も何度もわいせつな行為を繰り返した。 ペニスを尻に突き入れられる前に救出されたのは、不幸中の幸いだったと言う他ない。 しかし、救出までにペニスを使うアナルセックス以外のわいせつ行為はほぼされ尽くした。アナルセックスに至らなかったのは、犯人が崎山の「ならし」をしていたからに過ぎない。 数日後、警察によって救出されたはいいものの、地獄はそこで終わらなかった。 事情聴取という名のセカンドレイプ。 治療という名の苦痛を与えられる時間。 田舎町ゆえの悪意ある態度と陰口。 大人に同調する子供の残酷な暴力。 押し寄せるマスコミの無神経さ。 防波堤にもならない役場の職員。 これらが複合的に絡み合い、被害で弱っていた崎山とおっとりしていた彼の母が、心を壊すのに時間はかからなかった。 結果、崎山は他人に強大なトラウマを抱くことになった。 憤慨した父が引っ越しを決意し実行してくれなければ、今頃自分と母はどうなっていたか。時折、そんな詮無いことを考えて眠れないこともあった。 田舎から都会に住むようになって、母は徐々に心を持ち直すようになった。 都会は、田舎に比べて人間関係が希薄で、いろいろな嗜好の人たちがいて、自分から危険に踏み込まなければ、人の目を苦痛に思っていた一家にとっては意外と住みやすかった。 加えて、母の茶飲み友達になってくれた近所の女性たちとの緩やかな交流は、意外と楽しかった。 適切なカウンセリングも受けることができたおかげで、トラウマ対象を光貴以外のあの町の住人と、成人男性のみに緩和することができた。 なのに。 (……恐怖心だけが) 西村と誘拐犯の姿がオーバーラップした瞬間、あの数日間の体験が蘇り、崎山の心を絶望と恐怖が塗りつぶした。 虚勢は意味をなさなくなり、普段は意図的に低くしている声を作ることも忘れ、ひたすら許しと解放を乞うことしか出来なかった。 自分が今何歳で、どこでどう暮らしていて、何故この建物にいるのか。光貴に意識を引き上げてもらえるまで、まったく分からなくなっていた。 情けない所を見せたと思う。夜伽光の催眠作品を使ったオナニーに耽っていると白状したときより、よほど恥ずかしかった。 こんな図体で、子供のように怯えて泣き喚いたのを、どう思っただろうか。 「……充」 静かな声で呼ばれ、混沌とし始めた思考が散らされる。 左隣の光貴を見やると、神妙な顔つきで光貴が見ていた。なんだか申し訳なさそうな顔をしている。 「……ごめん、今の充の住所知らないから、適当に見つけたビジホでいい?」 「……ビジホ?」 上手く頭が回らず、オウム返しする。 何かされるのかと思ったと思われたのか、光貴が苦笑した。 「安心して、ちゃんとツインルームとれたから」 光貴がおもむろに手を伸ばしてきた。するり、と涙の跡が残る頬を撫でられる。 「……今の充を、流石に一人きりには出来ないよ」 そう言われて、不意に頭の底から恐怖心がまたひたひたと近づいてきた。 頬に触れた後すぐに下ろされていた光貴の右手を掴む。 光貴は驚いたようにその繋ぎ目を見遣り、すぐに崎山の顔を見る。 崎山は俯いていた。 縋るように掴んだ手が、明らかに震えていた。 「……本当に、一緒に泊まってくれるのか」 「うん」 掴んだ手に、無意識に力が籠もる。 何か腹の底からゲル状のものを吐き出しそうな、そんな吐き気を覚えていた。 崎山は都会に引っ越してから、自分の心の内を他者に晒すことを非常に恐れるようになっていた。 「……今日、一人でいると、いらんことを思い出しそうで……」 息苦しさに、いったん言葉を切る。喘ぐように呼吸を繰り返す。 すると、光貴がもぞもぞと姿勢を変えた。 ぎちぎちと音が鳴るくらいに握ってきている崎山の左手の上から、自身のそれを重ねて、ゆったりと覆うように握る。 崎山の喉が、ひゅ、と鳴った。 「大丈夫。俺は死んでもみーくんの味方だから」 「……!」 決して大きな声ではない。だが、優しく告げられたその言葉はガソリン車の走行音を斬り裂いて、崎山の耳に届く。 崎山は目を見開いて光貴を見やった。 車外の街灯の明かりがぼんやりと照らしたその顔は、あの日の帰路で再会した時と同じ、優しげで穏やかな笑顔だった。 「俺はみーくんのカウンセラーでもあるんだよ。俺には何でも言って大丈夫。だから、今どんな気持ちなのか、俺に教えて?」 いつの間にか、息苦しさも吐き気も消えていた。 光貴は確かに、カウンセラー・夜伽光だ。 だがそれ以前に、光貴はあの町の中で唯一、事件前も事件後も態度を一切変えなかった唯一の存在だ。 光貴の存在は崎山にとってどれだけ救いであったか。 「………………わ、い」 わななく口元から、自然に声が漏れる。 「……うん」 「こわ、い」 光貴のコートが作る影の中で、崎山は涙を流していた。 長ずるにつれて恐怖からくる涙は涸れたと思っていたのに、どこから出てくるのか分からない。 ただ、成人男性への恐怖心と、光貴があの頃のように側にいるという安堵感がない交ぜになっていた。 「うん」 光貴は手を離すとコートごと、静かに崎山を抱き寄せる。崎山は黙って受け入れた。 縋り付いていたはずの左手は、いつの間にか手のひら同士が触れあうように繋がれていた。
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