Case.3 痩せ馬の声おどし

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渋谷駅沿線に運良く空いていたビジネスホテルのツインルーム。 崎山は光貴に促され室内に入る。なんだか今日は疲れたので、目に付いたベッドにまっすぐ向かった。奥側のベッドだ。 光貴がチェックインをしたためルームキーを所持している。それを電気用の差し込みスイッチに入れたらしい。電気が点いて明るくなった。 備え付けデスクに鞄を置き、靴を脱いでベッドに上がり丸くなる。 不意に明るくなった。光貴の気配が遠くなったと思うと、ハンガー掛けの方からカチャカチャと音がする。 見ると、光貴が二人のコートをハンガーにかけていた。その音らしい。 作業が終わると光貴が近づいてきた。ぽすん、と頭に手を一回乗せられる。 「ふふ、子供の頃以来のお泊まり会だね」 先ほどまでの状況が嘘のような緩さに、崎山は思わず笑みを浮かべる。 体を起こしながら「……そうだな」と返事してみると、光貴も笑みを深めた。 足を床に下ろそうと動く。光貴はすぐに座りやすいように身を引き、備え付け品の何かを探そうと棚をあさる。 整髪剤で整えてたはずの髪は、あの騒動で乱れていた。それを更に自分で崩す。 右手で無造作に髪をかき乱しながら、崎山は深くため息をついた。 「……さっきは、情けないところを見せたな」 そう言うと、光貴は蓋を開けた電気ケトルとアメニティのミネラルウォーターから目を離して見てきた。 「いや、大丈夫。気にしないで」 言うと、ミネラルウォーターの中身を電気ケトルに入れ始める。 その声音や表情、仕草には何も取り繕うようなところはなかった。だからそれ以上は何も言わないことにした。 「さて」 ばちん、とケトルの蓋が閉じられた。 「まず充はひとっ風呂浴びる! さっぱりすれば気分も上向くから!」 バスルームを指さしながら言われ、崎山は一気に渋面を浮かべる。 無言で、ばすん、とベッドに倒れ込んだ。 「……疲れた、今日は入る気にならん」 ぐるる、と胃のあたりが鳴く。 上から光貴が覗いてきた。なんとも言えない表情である。 「……みーくん、無感情の極みみたいな顔になってるよ」 「これは元からだ」 「嘘つかないでよ」 はぁ……、と同時にため息が落ちた。 まずはメシだな、と独りごちた光貴は、スマートフォンと財布を持ちコートを羽織った。 「ここ、隣にコンビニあるからそこで何か買ってくるよ。なに食べたい?」 問われ、崎山は起き上がる。なんとなく魚介類は避けたかった。見ると今晩のことを思い出しそうだ。 「……肉」 「了解。俺が出たら鍵閉めていいよ。帰ってきたら連絡するから」 ひらひら、と手を振りながら出て行った光貴になんとなく手を振り返す。 扉が閉まると、無音になった。 このホテルのテレビインフォメーションはBGMのないタイプらしい。 不意に悪寒が全身を襲う。 慌ててリモコンを引っ掴み、適当なテレビチャンネルに合わせる。途端、どっという笑い声がテレビから流れた。 しばらくなんともなしに画面を眺める。普段は全く興味のないバラエティ番組であっても、音がないよりはマシだった。 * 「……そういや今日、俺ずっとお前のこと触ってたんだけど、嫌じゃなかった?」 そう問われたのは、光貴が調達してくれたコンビニ弁当を食べ終わり、シャワーブースに押し込まれさっぱりした後、彼がハーブティーの茶葉を出汁パックに詰めているのを眺めていた時だった。 言われて、はたと思い出す。 同僚や西村に近寄られた時はあれほど取り乱したのに、光貴にはどれほど至近距離で触れられても全く嫌悪や苦痛や恐怖を感じなかった。 「……そういえば、そうだった」 他人と光貴の違いは一体何だというのか。今だって、こうして同じテーブルに向かい合っている。それをごく自然に受け入れていた。 シャワーを浴びている間にレンズの汚れを拭き取ってくれていたので、今は眼鏡をかけている。視界ははっきりしているのだ。 実のところ、まだ実父にも隣に座られるのは怖い時がある。それだけトラウマが根強いということだろう。 首を傾げてこちらを見てきている幼馴染みに目を向ける。嫌悪や恐怖を感じるどころか、安心感すら持てる。 他人と、光貴。どこが違うのかは明白だ。 トラウマ対象か、そうでないか。 警戒すべき敵か、安心できる味方か。 湯を沸かし終えた電気ケトルのスイッチが鳴った。 光貴は備え付けのカップ二つに、一人前の茶葉を詰めた出汁パックを一つずつ入れる。たまたまコンビニに売っていたと言っていた。 質問の答えを未だ考えていると、光貴が静かに言う。 「……紡先生の趣味が茶葉集めでね、俺と綾人くんにしょっちゅう茶葉を押しつけるんだよ。今日もそう。カモミールティーだって」 「カモミールティー……」 「心身を落ち着かせてくれる効果が期待できるんだよ」 静かにケトルの湯が注がれる。ふわり、と蒸気が舞った。 「対面カウンセリングの時にお茶出してるでしょう。あの茶葉も全部、紡先生が自分で選んでるんだよ。学生の頃からの趣味兼ストレス発散手段だったんだってさ」 光貴が未使用の爪楊枝を使って、くるりと一回カップの中をかき混ぜる。出汁パックの中で茶葉が踊り、湯が茶の色に染まっていく。 「パッションフラワーティーは不安不眠軽減、ペパーミントは消化不良緩和、ターメリックは抗炎症作用、レモングラスは免疫力向上がそれぞれ期待できる……らしいよ」 光貴が又聞きの知識を披露している間に一分ほど経過していた。カップの中も大分色が付いてきた。 爪楊枝が茶葉入りの出汁パックを引き上げる。軽く振って茶をカップの中に戻せるだけ戻してから、まとめずに置いておいた空の弁当容器に置く。 「はい、どうぞ」
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