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Case.2 問い声よければ、いらえ声よい *
崎山が、半ば勢いで夜伽光の対面カウンセリングの予約を入れた数日後。
とうとうその日が来ていた。
今日は金曜日。本来ならばもう少し残業してから帰宅する時間帯だ。
中目黒にあるとあるビル。そのフロア一階分がまるまる【夜伽ヒプノセラピー】のオフィスとなっている。
予約フォームに入力したメールアドレスへの返信に書かれていた住所を頼りに、崎山は残業もそこそこにフロアの扉前に立っていた。
「……」
柄にもない緊張をほぐすために、深呼吸をする。
緊張することなど、ここ数年なかったのに。
無意識に唾を飲み込み、腕時計を確認する。
予約は20時から。もう少しだ。
ぐ、と通勤鞄を強く握りしめる。そして扉を開けた。
扉を開けてすぐ目に入ってきたのは、やや温かみのある照明に照らされた空間、【受付】と書かれたプレート、観葉植物の小さな鉢がいくつか置かれているカウンター。
「いらっしゃいませ」
そして、人工的な色合いの金髪を持つ若い青年の姿だった。
彼は崎山の姿を認め、立ち上がってから慇懃ながら無表情に頭を下げる。
「……予約していた崎山です」
やや距離を取りながら伝える。崎山は予想外のこの人物に、胃がキリキリとしてくるのを感じていた。
「崎山様ですね。少々お待ちください」
青年はA4のバインダーに固定してある紙とボールペンを、カウンターに置いた。
「こちらにお名前とカウンセリングに際してのご自身の所感の記入、予約内容に間違いがないかのチェックをお願いします」
その対応に崎山は内心を首を傾げた。
どの病院にかかっても、大概受付は初診やワクチンの記入用紙を〝手渡し〟してくるのが普通なのに。
説明し終えて、とっくに青年は席に座って事務らしき作業を始めてしまっている。
ともかく接触の可能性がひとつでも潰れたのはありがたい。
バインダーとボールペンを取り、崎山は用紙に記入していく。
書き終えた用紙をカウンターに戻すと、青年からカウンセリングルームの準備が整うまで待つように、と言われた。
手で指し示された方向には、一人がけのソファーが数脚並んでいる。その正面、左手と、ドアが二面あった。
一番端のソファーに座り待つこと数分。左手のドアが開いた。
そこから現れた相手に、崎山は目を剥くことになる。
「……崎山さん、お待たせしました。こちらへどうぞ」
白衣に眼鏡、黒髪の、温厚さを併せ持つ理知的な男。
間違いなく、彼が夜伽光だ。
だが、だがそれ以前に。
「崎山さん?」
衝撃の事実に声を失っている崎山に、夜伽光が再び声をかける。そこで彼は気を取り直した。
「……こちらへ、どうぞ」
夜伽光も微妙な笑みを浮かべている。
当然かもしれない。数日前に偶然の再会を果たした幼馴染みが、まさか自分の作品のヘビーユーザーな上に対面予約までするとは、思ってもいなかったに違いないのだから。
互いにぎこちない動きで、カウンセリングルームに入室する。
シーリングライトはオレンジがかった乳白色に調光されており、明るい雰囲気を纏っている。
インテリアはまるで、ラグジュアリーホテルのスイートルームをコンパクトにまとめたようだった。
丸テーブルを挟むように一人がけの革張りソファーが二脚。
向かって左手の壁際には、ボルドーのフットスローがかけられたセミダブルのベッド。
正面右手には、ドアがあった。
崎山はざっと室内を観察する。苦笑したままの夜伽光に、コートを壁際のコートハンガーにかけ、荷物をドア側のソファー足下にある籐籠の中に入れるように指示された。
夜伽光――工藤光貴はその間に、壁際の方のソファーに座っていた。テーブルセットに乗っていたティーセットのコゼーを外し、カップに何かの茶を注ぐ。
先ほどから室内を満たしている香りとは別の香りが、ふわりとテーブルセットに漂った。
「……どうぞ」
光貴がティーカップとシュガーポット、一杯分のミルクピッチャーを崎山の前に出す。
それを皮切りに、崎山は探るような声を出した。
「……お前が夜伽先生だったなんてな、光貴」
「……うん、まあ……」
ふー……、と長いため息を吐き出したあと、光貴は問う。
「……幻滅した? 充憧れの夜伽光が、実は俺だったなんて」
「いや」
崎山は首を振る。
ティーカップを手に取りながら続けた。
「全く知らない他人であるよりは緊張せずに済む」
「……今からでも、紡先生に担当を変更出来るんだよ?」
[[rb:月詠 > つくよみ]][[rb:紡 > つむぐ]]は、【夜伽ヒプノセラピー】に所属する女性のカウンセラーだ。
光貴は、成人男性の自分よりも女性である月詠紡が担当した方がいいのではないか? という最後の確認を取ったのだろう。
それにも、崎山は俯きながらも首を横に振った。
「……夜伽先生が、いいんだ」
「……そう、ですか」
光貴が細く息を吐く。
そのあと紡ぎ出された声は、先ほどまで発していた声――恐らく地声だった――と、ほんの少し色が違っていた。
音声作品でよく聞く、夜伽光の声だった。
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